雑誌『短歌』12月号の特集「はじめての石川啄木」を読む。今年は、歌集『一握の砂』刊行100年である。明治43年12月初旬にこの歌集が店頭に並んだ。
近藤典彦氏の「短歌在来の格調を破れり―啄木三行書きの意義―」という論考に次のような指摘がある。
啄木三行歌は「在来の格調」を自在化した上での「くずし」なのである。在来の技法を若くして摂取した後「くずし」に入ったピカソをわたくしは連想する。
近藤氏は、『悲しき玩具』から例をあげている。
友も妻もかなしと思ふらし――
病みても猶、
革命のこと口に絶たねば。(この歌は「三三九――/■六、/■七七。」なので三行目の七七で歌の調子がようやく表出する)
なるほど、最終行の七七ではじめて短歌の韻律が浮上してくるので、それまでは、短詩のような構成だ。病中の告白歌が多い『悲しき玩具』は、短歌の形式革命を内蔵しているのである。近藤氏のいう「くずし」に、ダダ的な形式破壊を感じとることもできるだろう。
『一握の砂』の三行書きについては、短歌的音律を変更するものではないとする意見もあるが、短歌と非短歌の境界について再考してみることは、研究課題であろう。
磯田光一は、『鹿鳴館の系譜』(1991年1月、講談社学術文庫版、初刊は昭和58年10月、文藝春秋)の「「小学唱歌」考」の章で、啄木の三行書きについて次のような指摘をしている。
(中略)ここで、「小学唱歌」の様式上の革新についてひとこといえば、七五韻律にしばられた『新体詩抄』にくらべて、歌曲であるためにかえって様式の自由があったということである。『讃美歌』のうちには、すでに八音や六音で区切る詩形も見られたが、『小学唱歌集』初編の『才女』は六音節を巧みに重ねた秀作で、また『四季の月』は、
さきにほふ、やまのさくらの、
花のうへに、霞みいでし、はるのよの月。のように短歌を分節化する様式を示している。のちに与謝野鉄幹が「短詩」として試みる技法、あるいは土岐哀果と並んで石川啄木にみられるような、
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくにという短歌の改行表記法も、その源流の一つは「小学唱歌」に、あるいは昭憲皇太后作の女子師範学校校歌『みがかずば』(明治十一年)にあったのではないかと思われる。
磯田は、小学唱歌などの歌曲の歌詞が、七五韻律を気にしないでよい場合があり、そのことが詩形の多様化と、区切り表記の自在化をもたらしたと考えている。
啄木は、小学校代用教員の職歴を持つが、唱歌をどのように考えていたのであろう。また、短歌の朗唱、音読については、1910年代には、どのようにとらえられていたのだろう。新詩社や観潮楼の歌会では、朗詠は行われたのであろうか。どのような区切りで朗詠、音読されたのか気になるところだ。
北原白秋の「断章」形式との関連も気になるが、白秋は仏教歌謡の影響を受けている。白秋に傾倒した『月映』の版画家、田中恭吉は、「短詠」という独特の短詩を作っているが、啄木の読者でもあった。
