映像にしたい場面

 志賀直哉の『焚火』は最初読んだときどこがよいのかわからなかったが、中心がふたつある楕円のような小説だと思うようになった。このことは、書いたことがある。
 事情あって山に入り、遭難しかけたKさんの危機を、Kさんの母親が察知して迎えを出すというのは、漱石の『琴のそら音』的主題で、暗黙のうちの感応を表現している。これが、ストーリーとしての中心である。
 もうひとつ、『焚火』にはイメージの中心がある。Kさんが、母が危機を察知してくれたおかげで無事帰還できたという話をしたあと、ラストには、次のような場面が描かれている。

Kさんは勢よく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛つた。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジユツと消えてしまう。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。

 投擲された燃え残りの薪が、火の粉を散らしながら、現実と、湖面に映じたイメージの二つの孤を描いて落下してゆく様子は、想像するだけでもとても美しい。火のイメージはこの小説のもうひとつの中心で、舟から人の焚火を発見した時には、次のような描写があって、伏線が張ってある。

小鳥島の裏へ入ろうとする向う岸にそれが見える。静かな湖水に映って二つに見えていた。

 以前に書いた文章の中では、火の二重の映像は、この小説には、二つの中心があるということを暗示していると述べた。
 つまり、母親が息子の危機を離れたところにいても察知するという暗黙の
感応は、ストーリーの中心だが、投擲された薪のイメージも同等の重みを持っているのである。

 ところで、今まで読んだ小説の中で、わたしがもっとも映像化したいと思うのは、この場面である。

 最初の一投があり、現実の火と映像の火が同じ弧を描きながら、水面で接触し、闇の静寂がやってくる。つづいて、みんなが投げた薪が、それぞれ弧を描いて、祝祭のような軌跡を残し、また闇の静寂がやってくる。
 実写ではむずかしいだろう。CGでもアニメでもよいから、実際映像化するとどのようになるか試してみたいという気持にさせられるのだ。