必要があって、プロパガンダのことを調べている。表現と現実の接触点について考えるというテーマから派生した関心である。
チョムスキーが民主社会におけるプロパガンダについて警告を発していることは知っていたが、功成った言語学者の余技程度のことに考えていた。しかし、マーク・アクバーとピーター・ウィントニックの映画『チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント』(1992年、シグロ制作、トランスビュー発売)を見て、考えを改めた。この映画は、チョムスキーの伝記映画としても見ることができるが、民主社会におけるメディアの硬直が構造的に不可避であることを、豊富な実例によって訴えている。独立メディアの創出が大切だと言うことを、チョムスキーは繰り返し訴えている。
わたしが学んだのは、主要メディアが送り出すすべての情報はひも付きだということだ。なんだ、いまごろそんなことに気がついたのかと言われるかも知れないが、わたしは、これまで、わりあい素直に大メディアの情報を信じてきた。大メディアの報じる情報は、少なくとも事実の部分では、信頼性があると考えてきた。情報の選択自体にバイアスがかかっていることを考慮しなかったのだ。
マニュファクチャリング・コンセントとは、「合意の捏造」という意味で、ウォルター・リップマンの『世論』(岩波文庫に翻訳あり。ニュースが真実を伝えないということを指摘する。)からとられた言葉だ。
ノーム・チョムスキーとエドワード・S・ハーマンの共著『マニュファクチャリング・コンセント Ⅰ』(中野真紀子訳、2007年、トランスビュー)の「新版の序」には、次のような一節がある。
公共圏とは、民主的な共同体において、重要なことがらが議論され、市民が理解力を持って社会に関与するための情報を与えてくれる、さまざまな場や公開討論の機会のことである。マーケティングと広告宣伝の、着実な進展と文化的な力は、「政治的な公共圏が、政治色を薄められた消費者文化によって置きかえられる」という現象を引き起こした。その結果、広告主が構築する、消費者の人口構成と趣味の相違に基づいた、仮想共同体の世界が創造されることになった。
わたしたちは、「公共圏」というとすぐ官制のものを思い浮かべてしまう。チョムスキーの言うのは、自主的な独立メディアが成立しうる土壌のことである。
ネットはごった煮世界だが、明確な顔を持つ個人という「ひも」がついた独立メディアが成立する領域でもある。新聞を読むことをやめ、大メディアを経由しない情報をネットに求めるようになった人たちが多数いるのではないか。
