「もりさがる」は、個人的な造語であり得ない言葉だが、「もりあがる」の反対で、ある種の物語を指すときにひとりで使っている。「へこむ」ことだが、マイナスの方向に「もりあがる」という構造を持った物語を評する時に使う。
映画なら、終了後、ふかくシートに沈んでいかざるをえないような感じの作品。ことわっておくが、だから駄作だというのではない。たとえば、黒澤明の『八月の狂詩曲』(1991年)は、しばらくシートに頭を沈めているしかないようなラストだった。今思うと、戦後日本に対する強烈な悪意があった。
小説なら、幻滅の物語。向日性の情熱に冷水が浴びせかけられるようなラストを持つ作品。古書で購入した田辺聖子編のアンソロジー『わがひそかなる楽しみ』(1990年1月、光文社)に、池内紀訳で、ホフマンスタールの「バッソンピエール公綺譚」(1900年執筆)が収められていた。久しぶりに読みかえしたが、これこそ幻滅の物語、「もりさがる」物語の最高峰である。
この物語は、シュニッツラーの『夢小説』(『夢奇譚』、初刊1926年)に影響を与えたのではないか。生への情熱が、なぜか〈死体〉に行きついてしまうというアイロニー。
文春文庫版『夢奇譚』(池田香代子訳、1999年7月)から、ちょっとだけ引いておこう。
――いまあとにしてきたあの丸天井のホールに横たわり、ほのめくガス燈の明かりのなか、ほかの影たちのように小暗く、神秘でもなければなんの意味も失ったものが、――おれにとって意味するのは、おれにとって意味しうるのは、もはや取り返しのつかない腐敗を定められた、過去になってしまった一夜そのものの青ざめた屍ということ以外のなにものでもないんだ。
この文春文庫版は、この小説を原作に使った、キューブリック最後の作品『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)の公開にあわせて刊行されたと記憶する。
小林信彦は、『映画が目にしみる 増補完全版』(2010年11月、文春文庫)にこの映画を取り上げていて、「ぼくはまた〈妻もまた秘密パーティにいた〉という形になるのでは、と予想していた」と記しているが、私はそうでないと意味がないのでは、と思っている。小林の指摘のとおり、映画ではそうなっていないのだが、小説では、はっきり書いていないので妄想してみることは可能だ。
この小説の原題は、 Traumnovelle であるが、 Traumanovelle のような気もするのだ。
