石川啄木が『ローマ字日記』を書き始めるのは、1909年4月7日からで、新しい黒クロース装のノートが使われた。ただし、「明治四十二年当用日記」の4月3日の項に、北原白秋の使いの者が詩集『邪宗門』を届けにきたという記事があり、6日まで、ローマ字で記述されている。
ただ、それ以前にも、「明治四十一年日誌」にも、ローマ字の記述はあらわれる。浅草凌雲閣の近辺の、いわゆる十二階下の私娼街の娼婦の名前がローマ字で記されている。たとえば、11月7日の記述には、「Hitachiya,Masako,-Tatsumiya,Mine.856 Senzoku-cho 2 cho-me.」とある。
さて、かなり以前だが、図書館に足繁く通っていた頃、たまたま浅草の資料のひとつに、十二階下の娼婦たちが、ローマ字書きの名刺を持っていたという記事があるのに気がついた。そのときの調査のテーマではなかったが、もちろんメモをとった。11月7日の記述は、名刺を写したものという可能性が出てくる。娼婦のローマ字書きの名刺が、『ローマ字日記』のきっかけをつくったのかもしれない。
ところが、転居をくりかえすうちに、メモが失われた。いくつか資料をあらいなおしたが、どこにそんな記述があったのか、見出すことができない。今では、自分の期待が、幻の記憶となったのかもしれない、とも思われる。やれやれ。
くろうとすじの女性が名刺をもつことは、たとえば、森鷗外の『青年』に出てくる。
おちゃらはしなやかな上半身を前に屈(かが)めて、一歩進んだ。薄赤い女の顔が余り近くなったので、純一はまぶしいように思った。
「こん度はお一人でいらっしゃいな」小さい名刺入の中から名刺を一枚出して純一に渡すのである。
純一は名刺を受け取ったが、なんとも云うことが出来なかった。それは何事をも考える余裕がなかったからである。
おちゃらの名刺は、純一の心に波紋を起こす。
それから純一は、床の間の隅に置いてある小葢(こぶた)を引き出して、袂から金入れやら時計やらを、無造作に攫(つか)み出して、投げ入れた。その中に小さい名刺が一枚交っていた。貰ったままで、好くも見ずに袂に入れた名刺である。一寸(ちょっと)拾って見れば、「栄屋おちゃら」と厭(いや)な手で書いたのが、石版摺(せきばんずり)にしてある。
屋号と名前が記してあるのである。
【付記】2024/01/13
ローマ字の名刺を持つ十二階下の女性についての記事を一つ見出した。《石川啄木『ローマ字日記』と浅草十二階下の娼婦の名刺》
