斎藤玉男は精神科医で、高村智恵子の治療にあたった。高村光太郎の「智恵子の半生」(初出、昭和15年12月、『婦人公論』、引用は、ちくま文庫版『智恵子紙絵』によった。)に次のような記述がある。
父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとったが、病勢はまるで汽缶車のように驀進して来た。諸岡存博士の診察もうけたが、次第に狂暴の行為を始めるようになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠ることにした。又仕合なことにさきに一等看護婦になっていた智恵子の姪のはる子さんという心やさしい娘さんに最後まで看護してもらう事が出来た。
斎藤玉男には、草野心平編『高村光太郎と智恵子』(昭和34年4月、筑摩書房)に寄せた「智恵子さんの病誌」という文章がある。
病室生活に付き添つた姪御さん、宮崎春子さんの記録によりますと、智恵子さんの切紙細工は多分昭和十一年末から始まつたと言ふことです。恐らくその頃からでありませう。これは入院前のバツタリ機のつづれ織の代用作業であつたと思はれます。そして作品はわれわれにはもとより春子さんの目にも曝したくなかつたらしく、光太郎氏には進んで示されたがそれを持ち帰ることは拒まれました。恐らくこれはつづれ機の代用であつたばかりでなく、健康ならば豊かに生産されたであらう彼女の「詩」の世界の、手近な象徴であつたればこそ、かくまで秘匿されたのであらうと思はれます。「他者に拒む」ことは「開くに値する高い世界を予想するから」のことであつたのかも知れません。これを一概に分裂病者の拒絶症状と片付けるのは理解の至らないものでせう。
なかなか、含蓄のある文章である。「「他者に拒む」ことは「開くに値する高い世界を予想するから」のことであつたのかも知れません」という表現には、たちどまらされる。予想していたのは、智恵子自身なのか、智恵子以外の人々なのか、どちらであろう。
機織りは、絵画制作の代償行為だとすれば、紙絵は、芸術表現の代償行為だということになる。開くに値するものであれば、秘匿する必要はないであろう。紙絵は限定された世界の表現行為であり、見る者が予想する高い世界をとうてい実現していないことを、智恵子は分かっていたということなのだろうか。わたし自身は、そう解釈したいと思うのだが。
野村 章恒「Johns Hopkins Hospitalと斎藤玉男先生と丸井清泰先生」(東京慈恵会医科大学、「精神身体医学」2(2)、1962年5月)という文章があって、斎藤玉男については、次のような記述がある。
私はわが国の精神医学界の先輩のうち第一次世界大戦で、ドイツからアメリカに避難して、アメリカ東部の大学や病院で、研究を続けられた学舎のことを斎藤玉男先生に教えられた。斎藤玉男先生ご自身は 1905年に島薗順次郎先生の紹介で Frankfurt/M 大学の Edinger 教授の教室に入られたが、研究テーマもきまらないうちに、第一次世界大戦が起つた。それで同年8月にオランダからロンドンにわたり、アメリカに移られたそうである。このとき同行の長崎医大の衛生学教授田代広介先生の紹介で、野口英世博士のお世話になり Baltimore の Johns Hopkins 大学精神科教室で勉強することとなつたそうです。ここには Adolf Myer 教授がおられ翌年2月まで研究された。テーマは Histology of the Nerve Cell だつたそうです。
斎藤玉男の簡単な年譜を示しておこう。
明治13年4月14日、群馬県勢多郡宮城村に生まれる。
二高から東京帝国医科大学医学部に進み、明治39年12月卒業。
東京帝国大学医科大学医学部副手、助手を歴任。
明治40年2月 医籍登録。
大正3年4月、ドイツ、フランクフルト・アム・マイン市立病院神経学研究所に留学。
大正3年10月、アメリカ合衆国ボルチモア市、ジョンス・ホプキンス大学精神病学教室に留学。
大正5年2月、帰国。
大正5年6月、日本医学専門学校教授嘱託
大正12年4月、東京市品川区にゼームス坂病院開設。
昭和6年6月、東京府立松沢病院副院長、東京帝国大学医学部講師。
昭和19年9月、ゼームス坂病院を閉じる。
昭和47年10月13日、死去。
