煙突文学全集001

 田山花袋『蒲団』(明治40年9月『新小説』)。
 「所有」には「もの」というルビがついている。こういう、風景と心理の組み合わせは、永井荷風が得意としたものだが、一九世紀フランス小説から学んだものと思われる。

 

「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人の所有だ!」
 歩きながら渠はこう絶叫して頭髪をむしった。縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充ち渡って、深い碧の色が際立って人の感情を動かした。肴屋、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町の低い地には数多の工場の煙筒が黒い煙を漲らしていた。

 

 小石川久堅町は、石川啄木の終焉の地でもある。

 『東京案内・下』(明治40年4月、東京市役所市史編纂係、書肆裳華房)によれば、久堅町には博文館印刷所(明治20年創立)があった。明治39年12月現在の使用職工800人であったという。