日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その1)

 さて、学問ラノベ『日本注釈学院青春記』、「共同幻想の巻」の第1回。全部書いてから、と思っていたが、いつになるかわからないので、とりあえず書いた部分を公開する。

      日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その1)

 西校舎の隅にあるカフェ想古亭には、紫外線カットのガラスをとおして午後の柔らかな日差しがふりそそいでいた。自然光をおぎなうLEDの照明が自動的に明るさを変え、ノートの文字が最も楽に読めるような明るさがつねに保たれていた。
 糖分は自然のものからとるのがよいと考えられていて、菓子類はおかれず、季節の果物やドライフルーツと飲み物を注文することができた。わたしは、神山というコーヒーと、林檎のドライフルーツを受けとると、広いカフェを見渡した。テーブルの下にかがみこんで、靴の紐をなおしていた、思想コースの丹羽修迅がひょっこり顔を出すと、こちらに笑いかけた。丹羽の後ろのテーブルに、近代コースの瀧島里の後ろ姿が見えるだけで、ほかにはだれもいないようだった。瀧島は小柄であるが、遠くから見てもすぐ彼女だと分かる明瞭な輪郭の存在感を示していた。四分六に右頭部から分けられたショートヘアが彼女の小さな顔を包み、軽く頬の内側に湾曲している。なにかノートを整理しているようだったが、その後ろ姿から、わたしは、すぐ最も気に入っている彼女の眉のかたちを連想した。優美に伸びる眉のラインは、はじまってすぐ微妙に渦を巻くような絶妙の曲線を描いていたのであった。はじめてその眉毛の小さな渦に気がついたとき、世の中には注釈の必要がまったくないものがあるのだと深く感じ入ったのであった。
 丹羽が笑みを浮かべながら手招きしたので、その向かいにカップと皿を置いて席についた。
「なにかいいことがあったのか。」
「注釈特講の課題テーマをもらったんだ。共同幻想のインターテクスト的分析という課題だ。」
 特講の課題は、受講者ひとりひとりにそれぞれ別のものが与えられた。担当教官の鈴掛一炊のとがったあごのイメージが思い浮かんだが、わたしは、それはまた大時代的な課題が出たものだ、と応じた。
 丹羽の前には、煎茶と切り分けたリンゴがのった皿と、2冊の文庫本が置かれていた。一冊は、角川文庫版の『改訂新版共同幻想論』であり、もう一冊は、廣松渉訳の岩波文庫版のマルクス、エンゲルスの『新編輯版ドイツ・イデオロギー』であることがすぐわかった。
「本人が、文庫版のための序文にマルクスから国家が幻想の共同体であることを知ったと書いているよね。」
「ああ、それは明白なんだ。」
 わたしと丹羽は、瀧島里がこの会話を聞いていてくれることをどこかで期待していた。
 丹羽は、角川文庫を手にとると、序の一節を朗読しはじめた。
「「人間はしばしば自分の存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担の一つである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。」」
「「逆立」というのが独特だったな。」
「個別の利害が普遍的な利害のように現れてくるという記述が『ドイツ・イデオロギー』にあるんだ。分業によって個人の利害、家族的利害と諸個人全員の共同利害の矛盾が顕在化するとマルクスが書いていて、エンゲルスが書き加えた部分がある。「まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として〈形成される〉」というんだ。」
 わたしは、繰り返し読んだ『ドイデ』(何という陳腐な略称だろう)を思い浮かべながら、丹羽のいう一節が、分業を止揚した共産主義の理想を語った「朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人、批判家となることなく、私のすきなようにそうすることができる」という部分の近くにあったことに気づいたのであった。
「つまり、逆立の典拠としては、個別利害が共同利害に転倒されるときに国家が出現するということがあげられるというわけか。」
「ただし、エンゲルスは、「実在的な土台の上でのこと」とことわっている。すぐそのあとで、「国家の内部における一切の闘争は(中略)幻想的な諸形態に過ぎない」という部分への補筆部分があって、「同時に幻想的な共同性として」とあるんだ。さらに、きわめつけの「そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ」という書込がある。」
 丹羽は、熱心にまっすぐわたしの目を見て語り続けた。
「つまり、普遍的なものは幻想的な共同性として現れるというのは、フォイエルバッハのキリスト教分析をそのまま、近代国家の成立に引き寄せてあてはめていると考えられるわけだ。」
「なかなかいいところをついてくるね。共同性としての人間存在というのは、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』で明確に主張されているんだ。」
「ドイツ語版をみてみたいね。」
「廣松が校訂した河出書房版をとりよせてみよう。」
 丹羽が、テーブルに手をかざすと、埋め込まれたディスプレイが起動した。
「実物でも、オンラインでも見られるが、どうします?」
「そうだな、実物が見たいね。」
 丹羽がなれた指さばきで情報を入れる。
 学院上層部では、かつて、食学接近派と食学分離派がはげしくあらそったという。あらゆるところで学ぶためには、食堂やカフェも例外にしてはならない、というのが食学接近派の主張であった。かたや、食学分離派は、貴重な文献がスープで汚されることは耐えられない屈辱だと応じた。激しい応酬の結果、食堂、カフェでも勉学を認めるが、書物は書見机で見るという妥協がはかられたのであった。
 「もうとどきますね。」と丹羽がいい、わたしたちは、カフェの隅にあるダストシュートのような書物取り出し口に向かった。取り出し口の上には、青銅のプレートがはまっていて、校訓である「いかなるときにも、あらゆるところでまなべ」という文字が刻まれていた。

 これは、小説である。ただし、引用される文献は事実に基づいている。