日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その2)

 さてお待ちかねの(?)学問ラノベ『日本注釈学院青春記』「共同幻想の巻(その2)」。

 「共同幻想の巻(その1)」はここです。

    日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その2)

 丹羽とわたしは、備え付けの小型ウェットティッシュで指先をぬぐうと、書見机の向かいにある書物取り出し口にむかった。みどりのランプが点灯すると、「ミュー」という猫の鳴き声のような音がして、書物取り出し口が開口した。
 送書管のなかはソフトメタルで内装されていて、本は傷つくことはないのだが、2冊の『ドイツ・イデオロギー』は、クラシカルないわゆるプチプチシート製の封筒に入っていた。学院内にはこうした送書管がたくさんあり、実際の本を取り寄せることができた。学院の地下には、《書海》と呼ばれる巨大な書庫があり、そこから本が送られてくるのだ。生徒たちに《書海》への出入りは禁じられていたが、《書海》には全視点カメラが備えつけてあり、あらゆる書架を生徒は見ることができた。生徒たちは、目的の書架を眺めながら、必要な本を取り寄せたり、その電子テキストを、自在に取り出すことができた。デジタルデータだけで検索するよりも、映像化されたものではあるが、書架の間を逍遙しているうちに、アイデアが浮かぶこともあるのだった。巨大な《書海》は無人で、教官によると、昔のジュークボックスのような仕組みで本が取り出されてくるという。送られた電子信号に反応した自在アームが、おなじ信号の書物に近づきつまみあげ、送書管まで運び封入するらしい。
 それだけでなく、自分に必要なヴァーチャルな書架を構成することもできた。作業に必要な自分用の特別の書架を作り、自由に参照できたのである。むろん、いましているように、実際の書物を取り寄せることも可能であった。
 丹羽は、封筒から2冊を取り出すと、書見机に置いて、該当頁を調べはじめた。廣松渉編輯版『ドイツ・イデオロギー』原文テキスト編と邦訳テキスト版(いずれも1974年、河出書房新社)を見比べながら、頁をすばやくくっている。
「あ、逆立ちはここだね。「法の理念、国家の理念、通常の意識においては事柄が逆立ちしている」とある。原文は、Idee des Recht. Idee des Staats. Im geöhnlichen Bewußtsein ist die Sache auf den Kopf gestellt.だね。Kopfが逆立ちという意味だ。それから、エンゲルスの書き込みの「幻想の共同性」という部分は、illusorische Germeinschaftlichkeitとなっている。」
 わたしは、書見机のディスプレイを起動して、ドイツ語辞書をひきはじめる。
「illusorisch というのは、現実に対して、幻想、虚偽、欺瞞という意味で使われているね。英語のillusionと同じだ。あくまで、現実的な問題が転倒して虚像の幻想の問題としてあらわれるというように逆立ちという表現は使われている。」
 丹羽は、『共同幻想論』では、現実と幻想という二元的な発想はとっていないのでは、と応じた。共同幻想という概念は、人間の観念世界の構造をとらえようとしている点では、現実対幻想の基軸を導入したマルクス、エンゲルスよりも、宗教を分析したフォイエルバッハに近いと言えるだろう。
 丹羽は、すばやくホログラフボードを立ち上げ、「船山信一訳の岩波文庫版『キリスト教の本質』の上巻(昭和12年第1刷)を呼び出してみよう。」と言った。
 ホログラフボードは、実際の書物を拡大したヴァーチャルな立体的な画像として投影することができた。私たちの背丈の半分ぐらいまでの大きさに拡大された文庫版の頁面が、目にはっきりとらえやすい濃紺の文字で現れた。丹羽は映像にタッチして頁をくっていく。
 丹羽が検索窓に「共同」といれると、「共同」の語彙が使われている部分がピンクのバックライトをあびて美しくかがやいた。
 少し前に、偶然、作業室で瀧島里がいくつものホログラフボードに囲まれながら、バーセイバーを使って資料の収集を行っているところを目撃したことがある。濃紺のジャケットと、フレアのある少し長めのスカートをゆらして、上向き加減で作業している瀧島の姿は、交錯するテキストのコンダクターのようだった。
 昔、ハイパーテキストという概念を提唱したテッド・ネルソンが、ストラクタングルという言葉を使ったことがある。ネルソンは、思考の結果である一冊の書物よりも、その書物が生み出される過程の、さまざまに絡み合った思考の変容する姿(ストラクタングル、すなわちタングルドストラクチャー、乱構造、絡まり構造)こそが重要だと主張したのであった。瀧島の姿は、ストラクタングルの迷宮の中に、秩序の糸をさがしもとめる探究者を暗示しているようでもあったのだ。
 丹羽が、「このあたりかな」とつぶやく。
 続けて丹羽は、「「第十四章――奇跡の秘密」の奇跡の心理学的説明の部分だ。」と言った。
 わたしが、目で追うと、ピンクに点滅している「共同の幻想」という一節を見つけることができた。丹羽が朗読しながら、ペン型のバーセイバーで引用してストレージにキープする。
「「これらの奇跡が全会衆の眼前で実際起こったかまたは起こったはずだということ・正気な人が誰もおらず万人が過度の超自然主義的な表象や感情にみたされていたということ・同一の信仰や同一の希望や同一の空想が万人を活気づけていたこと――これらのことはなんら根拠をもった異論にはならない。しかし共同の夢または同種の夢や、共同の幻想または同種の幻想もまた存在するということを知らない人がいようか? とくに、心情的であり、ただ自分自身のことしか考えず、その上密集している諸個人のもとには、そういう夢や幻想が存在するはずである。けれどもそれはどうでもよい。もし奇跡を心情や空想から説明することが皮相であるならば、そのときは皮相であるということの責任は説明者にあるのではなくて対象そのもの――奇跡――にあるのである。なぜかといえば、奇跡は白日のもとで見ると、まさに全く、矛盾をおかさないで心情のあらゆる願望をみたしてやる空想がもっている魔力以上の何物も表現していないからである。」」
 とても、妙なことだが、わたしは丹羽の朗読を聞いていて、フォイエルバッハとはまったく系譜の異なる日本のある思想家のことを想起せざるをえなかったのだ。
「いや、これは発見だ。マルクス、エンゲルスとは異なる系譜の「共同の幻想」の用例だ。むしろ、『共同幻想論』の記述にちかいものさえあるね。「心情的であり、ただ自分自身のことしか考えず、その上密集している諸個人」か。そうした人々の上に「共同の幻想」が逆立するわけだ。」
 わたしの胸の中には、注釈家たらんとするものがつねに悩まされる問題、本人の証言はどこまで真実なのか、という問いが頭をもたげてきた。
「丹羽君。マルクスに由来していると証言している彼自身は、『キリスト教の本質』に「共同の幻想」という用例があることを知っていたのだろうか?」
「先輩、それはどちらでもいいんじゃないでしょうか。」丹羽は改まった口調でそういうとあとを続けた。
「彼自身が知らなくても、この相似、つまり、奇跡、超常現象が「共同の幻想」にかかわるということは、動かしがたいテキストの連鎖を指し示していることは、はっきりしている。フォイエルバッハが楽観的に素通りしていることを、彼はたちどまって考えようとしているのです。それに、先輩はきっと、『共同幻想論』にも関わるある日本の思想家のことを連想したでしょう。」
 丹羽は、密集してきれいに短く刈られている髪をなでながら、そう言った。丹羽は、ホログラフボードのスイッチを切り、2冊の書物を封入して、書物取り出し口のボタンを操作し、書物を送書管に入れると返却の手続きをした。軽い振動音がすると、書物は《書海》にもどされていった。

 これは小説である。扱われている書物は事実に基づいている。

 かねて、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に「共同の幻想」の使用例があることを指摘しておきたいと考えていた。原文にはあたっていない。

 この「共同幻想の巻」と、「ディベートの巻」は、完成させたいと思っている。次回は、瀧島里もからみ、日本のある思想家についての議論が始まる予定。

 (Kimata Satoshi)