やっと、3回目。なかなか進みません。
日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その3)
ガラス窓の向こうはそろそろ日が落ちかけて、樹木が明確なシルエットを持ち始めていた。室内の明かりは、光量を少し増したようだった。丹羽修迅とわたしは、もとのテーブルの方にもどった。瀧島里は、作業をやめて物思いにふけっているようだった。首筋から背中へかけての体の線が少しやわらいでいるように見える。
丹羽は、少し整理してみようかと、いいながら小型ボードをテーブルから引き上げた。わたしにも、そしてもし瀧島が振り返っても見えるような角度にセットした。「図学の訓練の成果を試してみよう。」と言うと、丹羽は笑みを浮かべた。図学というのは、言語表現を図示してみせる訓練を積む授業のことで、たとえば、漱石の『三四郎』の構成を一図で図示せよ、というような課題が出されるのであった。
「まず、マルクス、エンゲルスでは、現実と幻想が対比されていて、現実の諸利害に対して、幻想のレベルで共同の利害が成立するとされている。幻想的な普遍性が現実の諸利害に対して逆立ちする、ととらえられているんだったよね。」
丹羽は、水平に線を引くと、その下部にいくつか小さな正立の三角形を描くと、線の上部に倒立した三角形を一つ大きく描いた。
「しかしだ。彼自身は「本質論」だというのだが、その発想の中には、現実と幻想の対比という要素はない。あくまで心的構成についての議論のように考えられるのだ。」
「ふつういうところのマルクス主義とは、まったく異なる発想だということかい?」
「ああ、こんな感じかな。」そう答えながら、続いて丹羽は小さな三角形と大きな三角形が頂点をくっつけ合っている鼓のような図を描いた。「小さな三角が個人幻想で、大きな逆立ちしているのが共同幻想というわけだね。」丹羽は、大きな縦長の楕円で逆立して頂点でつながっている二つの三角形を囲んだ。ただし、逆立ちしている上部の三角形は楕円の枠からはみ出ていた。手元の文庫本を開くと、丹羽は、
「「序」に、彼は、「共同幻想という概念がなりたつのは人間の観念がつくりだした世界をただ本質として対象とする場合においてのみである」と書いているよ。要するに、心的構造論の試みであって、現実と観念世界の関係を叙述する気はないということなんだ。」組んだ手を顎のしたにいれながら、こちらを見て、丹羽はそう言った。
「フォイエルバッハは、神は人間が理想化されたものだと言ったが、その人間は、共同体的存在としての人間だ。つまり、神は共同の幻想としての理想を示している。その点では、フォイエルバッハの議論も彼と同じく心的構造論であるわけだ。」議論の経過を確認するようにわたしはそう付け加えた。
「デュルケムの集合表象や、アンダーソンの想像の共同体としての国家、またハナ・アレントの鉄の箍などは、共同幻想と関わるが、みんな個人対共同性という発想の図式をふまえている。しかし、彼は共同幻想を生み出す心的構造を記述したいと願っているのだ。ところで、僕の描いた二つ目の図をひっくり返してみてください。」
「えーっと、どこかで見たような……」
「共同幻想の大きな三角を無意識に置き換えてみてください。」
「ははあ、フロイトの心の模式図に似ている。」
〔付記〕3月16日、三月書房さんのメールで吉本隆明の訃報を知った。
