『国際啄木学会研究年報』15号(2012年3月)に、ジェイ・ルービン著『風俗壊乱 明治国家と文芸の検閲』(2011年4月、世織書房)に関連するものがいくつか掲載された。
まず、吉田直美氏の書評。
何より、この本を読みながら魅了されたのは、ジェイ、ルービンその人の日本近代文学に対する読みの深さと的確さである。有名な文学者達はもちろんのこと、私たち日本人がもうほとんど手にすることもなくなっている作家でさえ、一人一人の細かな点についても、作者の生い立ちなどからも立体的に論じている。その記述によって、近代日本の文学が固定された評価を脱ぎ捨て、作品あるいは作家の一人一人が新しい価値を持って立ち現れてくるおもしろさは格別であった。
味読するという感触が翻訳でも伝えることができたとすれば、訳者の一人として大きな喜びである。
もう一つは、パネルディスカッションでの発言である。じつは、このパネルディスカッションでは、『風俗壊乱』を一つの論点として取り上げていただいたのだが、わたしは、勤務の都合で参加できなかった。パネラーの方々がそれぞれ、問題を提起している。
まず池田功氏。
ルービンの本に、啄木が「時代閉塞の現状」を生前公表しなかったのは検閲を恐れたためではないとされている。なぜならオーソリティについては魚住ほど遠慮のないものではなかったし、死後の大正二年に土岐善麿の努力により『啄木遺稿』の中で公表されているからである。
私は「時代閉塞の現状」は検閲を恐れて公表しなかったのであると思い込んでいたので、びっくりした。しかし、啄木が公表しようとしたと考えられる『朝日新聞』と、死後の二年後に刊行された本とでは、全く発行部数が異なりまた読者層も異なっている。オーソリティの点で魚住の方が遠慮のないものであったとしても、「時代閉塞の現状」の国家を敵として捉える過激さはやはり大変なものであり、検閲を意識して発表しなかったと考えた方が良いのではないかと思っている。
この論点は重要である。以前から、わたしは、「時代閉塞の現状」には、国家を敵とすることができないことに発するナショナリスティックな焦慮を隠しているではないかと思っている。竹内好が指摘したナショナリズムの分水嶺問題にちょうど適応すると考えているからだ。また、忠誠と反逆の円環構造を指摘した丸山真男のことも念頭にある。明治政府の正当性と、日本という近代国家の正当性は区別できるのではないか。平岡敏夫氏の佐幕派文学論は、その論点に目をつけたものだと思う。明治政府は、個人とともに、あり得べき共同性を破壊したともいえるのではないか。啄木は、悲憤慷慨の志士の文体を模しながら、検閲にひっかかることはないという見通しをもっていたとも言えるのではないか。
池田氏はもう一つ、近藤典彦氏の指摘に示唆をえて、啄木の小説「道」(明治43年4月、「新小説」)が検閲されており、伏せ字を含むことの意味を再考すべきだ問題提起している。
西連寺成子氏は、「新小説」の検閲にふれて、次のように述べている。
『新小説』は明治四二年一〇月、アンドレーエフ作「深淵」の翻訳によって発禁処分を受ける。それ以前の号には伏字はほとんど見当たらなかったが、これを機に『新小説』誌上には伏字がかなり目立つようになった。発禁処分は雑誌発行側にとって痛手である。出版社は発禁処分を恐れて危ういと思われる箇所についての内部規制を強めた結果、「道」のように伏字が施された小説が掲載されることが多くなった。
西連寺氏は、「道」の伏字には、編集者が付したものと、啄木が付したものの二種があって、後者は、「主に女性のセクシャリティをめぐる事柄」にかかわると指摘している。政治性と性的要素がともに検閲の対象となることは、現象としては確認されているが、そのことの本質を言いあてるのはなかなかむずかしい問題をはらんでいると思う。論文化されるということなので、追究を期待したい。
最後に、田口道昭氏。田口氏は、「「時代閉塞の現状」ははたして検閲を考慮しながら、天皇制に言及したものだったか」という疑問を呈し、次のように指摘している。
「我々の中最も急進的な人達」が、「盲目的に突進してゐる」のは、「彼等の入れられている箱の最も板の薄い処、若くは空隙(現代社会組織の欠陥)」であるが、明治の「天皇制」ははたして「箱の最も板の薄い処」であったかどうか(評論「時代閉塞の現状には、「日本は其国家組織の根底の堅く、且つ深い点に於て、何れの国にも優つてゐる国である」とある)。また、「空隙(現代社会の欠陥)」というのは、前の形式段落で「其制度の有する欠陥」という言葉が示している内実を示す。即ち、経済界の現状であり、貧民、売春婦、罪人の増加を指している。だからこそ、「我々の中最も急進的な人達~盲目的に突進してゐる」の後に、「今日の小説や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない」という文章が続くのである。そして、それが盲目的な突進であり、「我々自身の時代に対する組織的考察」が求められるのは、「すべて此等は国法によつて公認、若くは半ば公認されてゐる所」だからである。
今井泰子氏の理解に基づいたルービン氏の読みが「過剰な深読み」の危険があるという田口氏の指摘は認めてもよい。注釈の観点からは、田口氏の理解は正しいと思う。
ただ、田口氏が自覚しているとおり問題は残る。明治末における天皇と国家はいかなる関係にあるのか。また、大逆事件を「所謂今度の事」というような婉曲表現で言い表す国民性と国家はどのような共犯関係(コンプリシットな関係)にあるのか。
また、発言の表層では、国家に親和的でも、反国家的でも、システムに内属させられているという点では等価だという、ポストモダン的な認識の萌芽は啄木になかったのかどうか。そのあたりをぜひ追究してほしいと思う。(木股知史)
