命からがらの脱出

 今まで、読んだり聞いたりした敗戦体験のなかで、もっとも、記憶につきささっているのが、多田道太郎のそれである。

 こんど、根津朝彦氏の「多田道太郎の形成―戦後思想の萌芽―」(2012年5月、「社会科学」42巻1号、同志社人文科学研究所)という労作が出て、敗戦のところを読んで、そのことを思い出した。1945年8月15日、多田は、玄界灘の大島守備隊にいて敗戦を知る。根津論文の一節を引いてみる。

8月17日にはなおも大島守備隊の隊長が断固玉砕との方針を出しながら,翌日8月18日にはその中隊長が遁走し、多田は軍隊の構造の性質をまざまざと見せつけられることになる(6巻368~369)。9月になっても軍隊は解散せず(3巻386),多田は三木清らもかかった疥癬になり(6巻368),9月に内地の九州の北岸の鐘ヶ崎にある陸軍野戦病院に送られる。しかし,疥癬の治療には砂浜に立地する野戦病院は悪条件で,生命の危機を感じ9月下旬の深夜、病院から脱走する。そのまま博多までどうにか辿りつき,豚などを運ぶ貨物列車で京都に向かう。

 括弧内の数字は、筑摩書房版『多田道太郎著作集』の巻数、頁である。

 それまで確固としてあった制度や手続がまったく意味がないものにとけてしまったのに、その影だけが存続しているような状態。そして、生きていることの地肌に突然向き合うことになるような状況。ひたすら、システムから逃亡をはかるが、逃げ切れないような焦慮。

 こんなことは、これからも起こりうるのだと思うと、いろいろ考えてしまう。