空を飛ぶ魚

 詩集『月に吠える』の口絵は、田中恭吉の原画を木版にしたものである。その上部を拡大してみる。

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 右に、ペンギンみたいな鳥が見える。左は、下を向いた魚では。

 そう見えてしまう空目か。でも、先例がある。

 北原白秋が描いた、詩集『白金之独楽』(1914年12月)の口絵である。左上空に、魚、鳥が認識できる。

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 この二つの口絵の関連や、バレエ・リュスの衣装デザインを担当したレオン・バクストの影響の可能性については、「踊る人 『月に吠える』の口絵」(2005年5月、「図書」)、および『画文共鳴 『みだれ髪』から『月に吠える』へ』(269~277頁)で書いたことがある。

  もうひとつ書いたものを再掲する。

 

      魚鳥空を飛ぶ  イメージ散策①

                             木股知史

 田中恭吉が原画を描き、恩地孝四郎が製版の指示をした、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の口絵の木版画については、すでに「踊る人 『月に吠える』の口絵」(二〇〇五・五 「図書」)という文章に考えていることを記したことがある。紺紙金刷りというスタイルは、北原白秋の雑誌「地上巡礼」の表紙や、詩集『白金之独楽』の銀地青刷りの口絵から、暗示を得たのではないかということと、踊る人の図柄が同時代の舞踏の流行と関連していて、タッチはバレー・リュスの舞台装置や衣装のデザインを担当していたレオン・バクストの絵に影響を受けているのではないかということを指摘した。そのときに書き漏らしたことについてふれてみたい。
 以前から、踊る人の上部の左右に配置された図柄が気になっている。光の帯を発している太陽らしき惑星の両脇に二つの図柄が配されている。右側は鳥の形象のように思われる。左の形象が何を表すのかわからなかったのだが、ある時この口絵を眺めていると、魚を描いているように感じられた。魚が下を向いた形に見えたのである。もしそうなら、空中に魚鳥が飛んでいることになる。鳥が空を飛ぶのは当たり前だが、魚が飛ぶのは尋常な現象とはいえない。
 ところで、魚が空を飛ぶという表現は、萩原朔太郎やその周辺では、共有されたイメージであった可能性がある。たとえば、北原白秋の『白金之独楽』の自作の口絵「白金曼陀羅(十方法界之図)」にも、空に鳥とともに、魚が二尾描かれている。まさに魚鳥が空を飛んでいるのである。このイメージは、「白金之独楽序品」という黒地に金刷りの序文の「ワレイマ法悦ノカギリヲ受ク。苦シミハ人間ヲ耀カシム。空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇豆ノ如シ。」という一節にも見られる。また、『白金之独楽』に収録された詩「魚」は、つぎのような作品である。

  光リカガヤク天景(テンケイ)ヲ
  燦爛ト魚飛ビユケリ。

  麗(ウラ)ラカヤ、十方法界、
  感極マレバ海ノ魚
  須彌大山(シユミタイセン)モ飛ビ越ユル。

  光耀(カガヤキ)ノ深サヤ。

 空飛ぶ魚のイメージが表現されているが、ありえない現象が法悦境では生じるということなのだろう。空飛ぶ魚のイメージは、山村暮鳥、室生犀星ら人魚詩社の詩人たちや、白秋が主宰した雑誌「地上巡礼」に寄稿している今は忘却された詩人の詩にも表現されている。もちろん、萩原朔太郎にも同じ発想が見られる。「地上巡礼」第二号(一九一四年一〇月)に掲載された「純銀の賽」では、「みなわが賽は空にあり」というように、独特の浮遊感覚が表現されているが、賽は魚に変貌する。

  みなわが光は空にあり、
  空は白金、
  ふきあげのみづちりこぼれて、
  わが賽は魚となり、
  卓上の手はみどりをくむ。

 また、「地上巡礼」第三号(一九一四年一一月)に掲載された「天景」は、四輪馬車が「光る魚鳥の天景を」走るという幻想的な情景を表現した一節をふくんでいる。
山村暮鳥も詩集『聖三稜玻璃』(一九一五年一二月)におさめた「青空に」で、空飛ぶ魚を表現している。

  青空に
  魚ら泳げり。

  わがためいきを
  しみじみと
  魚ら泳げり。

  魚の鰭
  ひかりを放ち

  ここかしこ
  さだめなく
  あまた泳げり。

  青空に
  魚ら泳げり。

  その魚ら
  心をもてり。

 また、「烙印」という詩には、「あをぞらに/銀魚をはなち/にくしんに/薔薇を植ゑ。」という表現が見られる。暮鳥においては、魚を空に浮かべるというイメージが、現実世界の常識的な秩序を反転させるものとして、着想されているように思われる。常識的な現実世界とは逆さまの幻想世界が、空飛ぶ魚のイメージによって表現されているのだ。朔太郎の場合も、亀が蒼天に沈み(「亀」)、魚に変貌した賽が空に浮かぶ(「純銀の賽」)が、重さのあるものが浮遊するという、反転した空想世界を表現しているといえるだろう。彼らのイメージのもととなったのが北原白秋の『白金之独楽』だと推定されるが、白秋の場合は、仏教的な法悦の世界の表示として、空飛ぶ魚のイメージを使っている。
 ここで少し採集した事例について整理しておくと、魚鳥が空を飛んでいるのが、『白金之独楽』の口絵(白秋自作)、『月の吠える』の口絵(田中恭吉原画)、朔太郎の「天景」(「光る魚鳥の天景を」)であり、魚のみが空を飛んでいるのが、白秋『白金之独楽』序文(「白金之独楽序品」)、詩「魚」、朔太郎「純銀の賽」、暮鳥「青空に」「烙印」である。
 なぜ、魚鳥が空を飛ぶ場合と、魚が空を飛ぶ場合にわかれているのだろう。考えられるのは、魚鳥が空を飛ぶという表現をもった出典があって、それが魚が空を飛ぶに変化していったのではないかということである。経典などに魚鳥が空を飛ぶという表現があるのかどうか、仏典に詳しい国文学者に尋ねたりしたが、突きとめることができないでいる。ともあれ、空飛ぶ魚は、現実を反転させる幻想世界のシンボルとして、朔太郎や暮鳥に共有されていたのである。
 もうひとつ、『月に吠える』の口絵の木彫の線は生硬に感じられる。口絵を彫ったのは、山岸主計(やまぎしかずえ)であることが、詩集末尾の印刷作版担当者の一覧によってわかる。幼時にフランスから来日し、独特の浮世絵を制作したポール・ジャクレーの作品を、山岸は彫り師として担当している。『ポール・ジャクレー』(横浜美術館企画・監修二〇〇三年五月 淡交社)で、山岸の製版した作品を見ると、並々ならぬ技量の持ち主であったことがわかる。『月に吠える』の口絵の一見生硬に見える線は、原画を忠実に再現したものであり、彫師の技量の不足のためではないと考えてよいだろう。

*『Sym.』1号(2007年4月)掲載。ふりがなは括弧の中に表示した。

 たしか、『文学におけるマニエリスム』にも、空飛ぶ魚の詩の引用ががあったのでは。