『日本文学』12月号に、澤正宏氏が「3・11の経験と文学」(引用者付記-「経験」に「エァファールング」のルビあり)という文章を寄せている。
一節を紹介しておきたい。
東日本大震災があった翌日の午後、福島第一原発1号機が水素爆発を起こしたとき、瞬間的に頭に浮かんだのは「また福島が犠牲にされたな」という、松川事件を想起しての言葉であった。事故以前の原発建設までと原発稼働後とにも強いられた犠牲はあった。しかし、3号機の水素爆発(14日)直後に東電社長が政府に原発からの撤退を申し出た事実、翌日、文科省はSPEEDIによる予測結果を基に浪江町に職員を派遣し放射線測定(午後九時前には三三〇μSv/時)をしたのに省内だけで活用し住民非難には役立てなかった事実、さらに一八日には米エネルギー省が文科省と経産省原子力安全・保安院とに提供した放射線実測値の汚染地図を両者は公表せず、大量に拡散した放射性物質で汚染された地域(第一原発の北西三〇㎞超で一二五μSv/時)が避難先、避難経路に選ばれた事実などは、事故後に私が受けた最も大きな衝撃であった。一五日午前には2号機から放射性物質九〇万テラベクレルが漏洩し北西(福島市)方向に飛散し深刻な環境汚染をもたらしたが、その日の午後、私は市からの給水を受けるために広場にならんでいた。後日、こうした事実を知る度に、保身のために福島を平気で捨てる企業や国家の、身体を通しての経験は、原発事故はなぜ福島で起きなければならなかったのかという問題を突きとめなければ、現在の自分が在りえないというところまで私自身を追い込んだ。
