ブログ《啄木の息》の記事が、先日(11月23日)の国際啄木学会のパネル報告を報じてくれている。
少し補足しておこう。新潮社版全集、合本版歌集などによって、啄木の歌は読者を得ていくが、歌を専門にしている歌人ではなく、文学を好む青年たちに浸透していった。
創作版画誌『月映』の版画家、田中恭吉は、歌を作っているが、啄木の影響を見出すことができる。田中恭吉日記 明治四五年一月二九日の記述は、「先人のよき歌」と題して、気に入った歌を列記しているが、啄木の『一握の砂』から二首の引用がある。牧水、吉井の歌も見える。
喀血した田中恭吉は、「秋の病床」と題して四一首の歌を回覧雑誌『密室』五号(一九一三年一一月一一日)に発表している。(和歌山県立近代美術館企画・監修『田中恭吉 ひそめるもの』二〇一二年九月、玲風書房所収)
あかあかと 土にしみゆく
血のいろに
こころ吸はれて 立ちもありしか〇『このあたりから血が出るやうです』
青白き
皮膚をおさへて 医士に言いけり。〇身がだるし
しいつがつめたし
あけがたの
うすきひかりがにぢみ入るころ。〇朝みれば
畳のうえに コスモスの
花粉がちれり しづかなるかな〇やすらひは
ついにおそろし ありし日の
つみのかずかず うかみいづれば。〇ルビアといふ
フランス娘が夢にいりし
そのあけがたの
黒き血のいろ
3ないし4行の多行表記、そして死に直面した極限的な表現は、啄木の『悲しき玩具』を想起させる。
田中恭吉の短歌・短詠に注目して評価しているのが、荒川義英である。『生活と芸術』に「一青年の手記」という小説を発表し、大杉栄に親炙していた荒川には、「逝ける田中恭吉君の歌」(『處女』第一二年第三號 女子文壇社 、大正五年二月二五日発行)というエッセイがある。
故人石川啄木氏の『悲しき玩具』此の歌には瀕死の病人の溜息がよく現はれてゐた。なほ啄木氏には生きんとする力、もう一度盛りかへさうとする生のうめきが聽える様であつたが、田中君はさう云ふ所はない。
けれ共田中君は二十三歳で逝つたのである。然かも不健康の状態に入つたのはずつと前であらうから、君の精神上成人―甚だ漠然と―の域に達した頃は既に世の普通人の状態ではなかつたらう。僕は田中君がどう云ふ境遇にあつた人かと云ふことは知らない。啄木氏の如く、働かずに居られない状態の下に在つた人かどうかは知らない。故に田中君がなほ十年生き延びたら何んな藝術家になつたかを想像することが免れないのである。けれ共、唯斯くの如く曖昧な立場にあつてなほ平気で云々する事のできる所以は、田中君がなほ若かつた故に境遇の影響がさうまで隔絶されない時代であると思ふからである。
荒川は、回覧雑誌『密室』の歌は見ていない。したがって、田中恭吉が啄木から大きな影響を受けていることは認識していないが、両者に照応を見出している。荒川は二人の差異に注目しているが、田中恭吉も「瀕死の病人の溜息」を表現していたのである。
啄木をなかだちにして、内面の革命をめざした田中恭吉と、外部の変革にこころひかれた荒川義英が出会っている。
荒川の小説が掲載された『生活と芸術』は、土岐哀果が主宰していた。土岐哀果は歌集『悲しき玩具』の編纂者である。創作版画誌『月映』は、土岐に寄贈されていた。
抒情の緊密さという視点に立てば、『悲しき玩具』の歌は、『一握の砂』にくらべて、ゆるみ、くずれが目立つといえるだろう。歌だけに限定すれば、生活派の抒情は純度が低いということになるだろう。
しかし、歌が専門化することへの抵抗というDNAが、『悲しき玩具』には存在する。抒情の統一を意図的にくずすという動機があり、それは、生活派にうけつがれている。
西村陽吉『第一の街』(大正一三年七月、紅玉堂書店)「巻末に」二は、次のような一節がある。
芸術そのものよりも、人間の生活現実の方を重く見ようとする態度が、私のいふ「生活派」なのである。だから私の立場に於ては、芸術も生活の一部であつて、生活(全体としての生命活動)を芸術の名の下に従属せしめようとする一部の人々の態度に服さないのである。
