2012年11月23日の国際啄木学会のパネル報告の要約の続きである。ずいぶん間があいてしまったが、続きを書いておく。
「和歌史」における早い時期の啄木評価を児山信一『新講和歌史』(昭和六年三月、大明堂)によって示した。
『悲しき玩具』では、『一握の砂』以来の無雑作に生活を歌ふといふ傾向が一層著しくなり、ある場合には全く傍若無人に歌ひ捨てて、そこに自暴自棄の態度さへ見えるやうである。
児山は、「文語脈を基にして口語脈を入れた歌」とも評している。児山のいう「自暴自棄の態度」は、意図的な革新性のあらわれとも見ることができる。
児山の啄木評については、過去記事「児山信一『新講和歌史』」を参照されたい。
児山が指摘している「口語脈」の問題は、歌の意味にも影響を及ぼしてくる。文語的なとらえ方では、十分な理解ができない例として、言いさしの表現を取り上げてみよう。
家を出て五町ばかりは、
用のある人のごとくに
歩いてみたれど――
新しき明日の来きたるを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど――
あたらしきサラドの色の
うれしさに、
箸をとりあげて見は見つれども――
最後の「あたらしき」の歌は、「見つれども」は逆接で、結局、サラダに箸をつけることができなかったととるのが自然だろう。
だが、すべての歌をそのように逆接での中止ととってもよいのだろうか。
たとえば、田中礼「近代短歌史のなかの『悲しき玩具』」(1994年4月、村上悦也、上田博、太田登編『悲しき玩具 啄木短歌の世界』、世界思想社)は、引用した歌について、「「――」の後は、(1)は「実は用などありはしないのだ」。(2)は、「新しき明日は容易に来ない」、(3)は「食欲がなくたべることができない」と読めるが、いずれも口ごもるようにして、現在の切実な行動、ことば、動作の中味を否定している。」と指摘している。いずれも、「ど」「ども」は逆接の言いさしととらえられている。
いまは、なくなった関西啄木懇話会の機関誌『啄木文庫』のとびらに、「新しき明日」の歌が掲げられていたことがあった。ふと、「新しい明日は来ない」なら、扉にはふさわしくないのかもしれないと思ったことがある。しかし、そのように否定的にとってよいかどうか、迷いもあった。
偶然、白川博之『「言いさし文」の研究』(二〇〇九年六月、くろしお出版)という本を手にとる機会があった。「――けど」で中止する言いさし文の分析が示されていた。白川は、次のように記している。
ケド節の談話における機能は、「聞き手に参照情報を提示すること」とした。これはケド節に備わった本来的な機能であり、倒置的な用法や挿入的な用法に見られる「相手伺い」といった意味合いは、この本来的な機能から派生的に生じたものであることが明らかになった。
談話においては、ケド節は、逆接の表現とは必ずしも言えないのである。
白川が紹介している用例を一つ紹介しておく。
(2)そのとき私が聞かれたのは、「小津の映画をどう思うか」ということだったのです。私が「小津安二郎は日本を代表する映画作家だと思いますけれども」と答えると、(後略)(篠田正浩『日本語の語法で撮りたい』p.73)
白川の本は、現代口語についてのもので、「ど」「ども」の中止法については言及していない。しかし、ケド節についての指摘は、「ど」「ども」の中止法にも援用できるのではないかと、感じたのである。
「新しき明日の来きたるを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど――」は、読者に、新しい明日への希求のこころを参照情報として提示しているのではないか。
とてもおもしろいことに、パネル・ディスカッション当日の、飯村裕樹氏の報告「高校生は如何にして『悲しき玩具』を読むか」の資料に、生徒によって現代語化された「新しき明日が来ることを信じてる/自分の言葉に嘘がないけど」という作例が紹介されている。
ケド節に、「ど」が変換されているのである。この「嘘がないけど」という言い方には、逆接の意味は生じないと見てよいだろう。
困難ではあるが新しい明日の招来への希求の念の共有こそが、この一首の核心であるということになる。
