田中恭吉の版画への関心に影響を与えたのが香山小鳥。
小鳥の親戚の娘に恭吉は恋をした。この不幸な恋の顛末について、田中恭吉は、回覧雑誌『密室』第2号(1913年5月)に、日記や書簡を摘録した「二十一日間」という文章を寄せている。末尾にまとめられた歌から何首か引いておこう。
夢ならで再君に会はざらむ 会ふとてつらきさだめとしれば。
友よ物な言ひそね痛ききづ口をあばくはつらし我ひとりあらむ。
窓掛はとざしぬ君に似る人をみるに耐へ得ず目とぢてあらむ。
恋しさ恋しさこの恋しさを掴みえて地になげつけむ由もあらじな。
かかる日は青葉のかげのうすやみのかのみの虫となりてすままし。
さりげなく照る日なれ共新しきこのきづ口にしみいるいたさ。
地よ裂けよもの皆果てよかかるときはじめて笑ふわれなりしかな。
三階はとぶにすべよしくだけてむ、さあれ一人はさあれひとりは。
死ぬるべくよき家にありとせめてものあきらめ事ににが笑ひしつ。
弱きさあれせめては心うつくしき男なりしとおぼえたまひね
あさましう、ふとこそ浮べ たそがれの 癲狂院のうす白きまど。
小さき心臓さはさりながら火の如き君にそそがむ血ぞあふれたる。
指を組み身もだゆることに馴れ馴れぬ君はもいかにあるべき日頃ぞ。
つつましき君を思へばあふれ出づる涙によりて何をそだてむ。
鐘はなるゆうぐれ時のはかなさの君おもふ胸にしみじみと鳴る。
わが姿いともわびしう泣きぬれて鏡(かゞみ)の中にあるをみいでぬ。
日暦をやぶらぬ久し いたましき かの日はいまも静にかかれり。
君をうばひ野すぎ山すぎ青き海ひたすぎにすぎとびゆきし夢。
若葉木に背をはもたせて蜜柑吸ふこの恋づかれうらさびしさよ。
日はすぎぬ花赤う散り黄にちりぬ やはらかに猶君を慕へり。
棕梠の花たまたまいでし野の末にかろく咲くみゆ空の青さかな。
雲重し若葉いたましなべて世の湿潤の中に身もてあませり。
熱をやむ若葉若葉のひしめきの眼にしみいりていたき朝かな。
忘れじなゆく末かけて美しきつめたき君と忘れやはせじ。
謎よ謎よわが恋謎に終りしと思へば更に涙ながるる。
すこやかさ失ひ果てて恋ひつめぬ つめたき性の君としりつつ。
夜なりああ君去る夜なり終にわが悲しき性をみ出す夜なり。
神よなどかの美しきみめをしてかのつらき性(さが)秘めたまひしや。
青、青につづくかなしさ、空みればうす赤雲のまろぶかなしさ。
五月野にわれうらがなし一人居の夢のまみして君恋ひわたる。
色赤き詩集はもてど実(み)は食(は)めど、悲しさ去らず春ゆく日なり。
松の花吹き散る頃のわが恋の果をおもひて涙ながれぬ。
皮肉めく笑かこめりきづつきてたをれしわれは猶生きてあり。
扉そは何をおさめし初恋の戸ひくひまなくわれ盲ひにき。
驚愕のあとのさみしさ青を踏み粟(ママ)の花粉のちるをみつむる。
若き身の銀座あゆめば昼となく夜となくたゞにものの泣かるる。
栗の花露草いろの空かけて粉ふるふ日のわが恋づかれ。
空みれば曇りぞ果つる樹々は樹々静にひそめりたゞ君を恋ふ。
とかくして青き玻璃戸に頰をふれて、とりとめもなくおののきしこころ。
野の青さたまたま来り愁はしき心をひたす野の青さかな。
