黒岩比佐子の『忘れえぬ声を聴く』(幻戯書房)を読んでいると、『武士道』に偽装された『麺麭の略取』を古書即売会で購入したことが書かれている。このことは、『パンとペン』に詳しく書かれていたことを思い出した。ハードカバーが見当たらないので、講談社文庫版を見てみると、「第六章 売文社創業」の「『麺麭の略取』偽装本」という節に詳しく記述されている。以下、黒岩の記述を紹介してみよう。
表紙は「朱色に近い赤」で、背には金文字で「武士道 新邊戸稲造」と印刷されている。新渡戸稲造とは、「渡」の字が違っていることにあとで気がついたという。一九〇八年刊の日本語版の『武士道』の表紙は紺色だという。黒岩が見つけた本は、発禁本のクロポトキン著、平民社(幸徳秋水)訳の『麺麭の略取』(一九〇九年)に『武士道』の表紙を貼り付けたものであったのだ。
ここからがおもしろい。光をあててみると、所有者のペン書きの署名が浮かび上がる。「一〇、五、一九一五・/荒川義英」とある。数字は日付で、一九一五年五月一〇日を指している。荒川は、堺利彦のもとに出入りしていた青年で、堺の世話で、土岐哀果の『生活と芸術』に小説『一青年の告白』を寄稿し、新進作家として注目されるようになった。
本ブログの過去記事(「大正期の啄木受容について①」)では、荒川が田中恭吉の追悼文を書いていて、啄木を引き合いに出していることを紹介した。田中恭吉の短歌は明らかに、啄木の影響を受けているが、内的革命を目指した田中と、社会変革に傾いていく荒川が、啄木を鏡にして出会っていることが興味深い。荒川は、やがて大杉栄に魅せられて親炙する。偽装された『麺麭の略取』は、大杉からもらったものだと推定されている。大杉との出会いについて。黒岩は、次のように記している。
家出少年だった荒川は堺のおかげで一躍新進作家として注目され、売文社に入った。だが、社会主義運動を起こす気配がない堺に、荒川は次第に物足りなさを感じはじめた。そんなとき、大杉の自宅でもある大久保百人町の近代思想社で、荒川は初めて大杉と荒畑寒村に会って仲間入りを許される。
荒川義英については、堀切利高「荒川義英の生涯」(「大正労働文学研究」1979年10月)という論があって、『パンとペンで』は、それにそって荒川の生涯が紹介されている。ここでは、堀切利高執筆の『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版二〇〇四年四月)の堀切利高執筆の項目をもとに摘録しておこう。
荒川義英 一八九四年~一九一九年
愛知県生まれか。陸軍軍人荒川銜次郎の長男。一家で上京し、父の母校成城中学に入るが中退。一九一四年二月、父の旧知堺利彦の紹介で創作「一青年の手記」を『生活と芸術』に発表、大杉栄に親炙し、第二次『近代思想』に参加、同誌廃刊後一九一六年二月、五十里幸太郎と『世界人』を発刊。一九一九年持病の喘息の発作で大連にて客死。一九二〇年年5月、堺利彦により、は社会文芸叢書第二編として遺稿集『一青年の手記』(聚英閣)が刊行される。
『パンとペン』では、荒川が所持していたと考えられる、『武士道』偽装の『麺麭の略取』は、大杉から入手したものだと推定している。その理由は二つあって、一つは、記された日付の頃は、荒川が堺を離れて大杉に傾斜していた時期であるからだ。もう一つは、大杉が武士道について大いに関心を持っていたことである。すなわち、『武士道』に偽装したのは、大杉がもともと武士道全般に関心を持っていたからだということになる。
さて、偽装された本は赤かった。赤い本ということですぐ想起したのは、石川啄木の歌集『一握の砂』に納められている次の一首である。
赤紙(あかがみ)の表紙(へうし)手擦(てず)れし/国禁(こくきん)の/書(ふみ)を行李(かうり)の底(そこ)にさがす日(ひ)
この一首は、最後の「手套を脱ぐ時」の章にある。作歌したのは、「歌稿ノート」によると、明治43年7月23日の朝である。ノートでは、二句は「表紙手ずれし」、四、五句は「書よみふけり秋の夜を寝ず」となっている。五句には「妻といも寝ず」という並記もある。「東京朝日新聞」(明43・8・7)に掲載された「手帳の中より」では、四、五句が「書読みふけり夏の夜を寝ず」となっている。「スバル」」(明43・11)掲載の「秋のなかばに歌へる」2も加えられていて、そのときは、一、二句が「赤色の表紙手ずれし」となっている。「国禁の書」とは、国家が発行、発売を禁じている書物、すなわち発売禁止処分を受けた書物のことである。行李の底に赤い表紙の国禁の書物を入れておいたのは、大逆事件後の社会状況を反映するものとかんんがえてよいだろう。手ずれているのは、繰り返し読んだか、多くの人の手をわたってきたことのあらわれであろう。
「赤紙の表紙」の「国禁の書」については、近藤典彦『一握の砂』の研究』(2004年2月 おうふう)が幸徳秋水の『平民主義』(明40・4)を表象しており、クロポトキンの『麺麭の略取』のことも念頭にあったのではないかと指摘している。
大逆事件以後の出版の取締状況は、啄木が「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」の明治43年9月6日の記事に、「この日安寧秩序を紊乱するものとして社会主義書五種発売を禁止せられ、且つ残本を差押へられたり。爾後約半月の間、殆ど毎日数種、時に十数種の発売禁止を見、全国各書肆、古本屋、貸本屋は何れも警官の臨検を受けて、少きは数部、多きは数十部を差押へられたり。」と記しているとおり、きびしいものであった。
たとえば赤旗にしめされているように、赤い色が革命思想や労働運動に関わるようになった起源はフランス革命にあるといわれている。 その意味で『平民主義』や『麺麭の略取』が赤色の表紙であることは了解できる。
しかし、私の脳裡にうかぶのは、1910年刊行のもう一冊の赤い本のことである。柳田国男の『遠野物語』の初版である。
筑摩書房『柳田國男全集 第二巻』(1997年10月)の「解題」では、1910年6月14日発行、著者兼発行者は、柳田國男であるので、「自刊」だととらえ、聚精堂は売捌所だとしている。部数は350。復刻版が、日本近代文学館から1968年に刊行されたというが、わたしは見たことがない。図版で見ると、『平民主義』の装幀に通じるものがある。
幸徳秋水が逮捕されたのは、6月1日、報道管制が敷かれ、11月まで事件の内実は伝えられていない。柳田は、どの程度大逆事件のことを認識していたのだろう。
柳田は『遠野物語』を危険なものだと考えていたのだろうか。根拠なく、思いつきを記すのは、忸怩たるものがあるが、おもしろい相似なので、記しておく。
○図版出典
*『平民主義』の書影は、《大学プレスセンター》の記事「明治大学中央図書館ギャラリー企画展示「城市郎文庫展―出版検閲と発禁本」を開催 ~奇書「煩悶記」や「蟹工船」「平民主義」など発禁本の実物を展示~」によった。
*『遠野物語』の書影は、図録『日本のグリム 佐々木喜善』(2004年9月、遠野市立博物館)による。
(木股知史)
◇この記事は、「あれとこれ」シリーズのひとつである。2012年の田中恭吉展をむかえて、田中恭吉の表現と関連するものを比較して取り上げるというのが着想のきっかけで、即興的だがいろいろ発見もあった。
◇『遠野物語』の刊行の経緯については、石井正己『遠野物語の誕生』(2005年8月、ちくま学芸文庫、初刊は000年8月、若草書房)が詳しい。装幀については、あまり記述がない。ただ、第一冊を献呈された佐々木喜善が柳田に宛てた書簡(6月18日)に「表紙の色具合、たつた遠野物語と四字だけ表せし処」が、柳田の趣味の奥ゆかしさを示しているという記述があるという。
◇サイニイで「大杉栄 武士道」で検索しても、何もひっかからない。論文があるとおもしろいのだが。
◇「遠野物語 大逆事件」で検索すると、次の一編があった。佐伯有清「研究余録 柳田国男と『青い鳥』と大逆事件」(日本歴史 (673), 85-92, 2004-06 )。
