恩地孝四郎と洛陽堂

 図版は、グラシン紙をかけたままだが、赤木桁平『芸術上の理想主義』の函。刊行は大正5年10月、版元は洛陽堂である。いまでは、近デジに入っている。

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 洛陽堂は、周知のとおり、竹久夢二のコマ絵の画集、『白樺』、創作版画誌『月映』の版元である。社主は、河本亀之助。先日、田中英夫氏による伝記『洛陽堂河本亀之助小伝』(燃焼社)が上梓され、生涯と事績の全容が明らかになった。

 赤木の本には、いわゆる遊蕩文学撲滅論争の関連エッセイが収録されている。今日は中味ではなく、箱のロゴに注目しよう。洛陽堂のロゴは、独特で、すぐわかる。さて、恩地孝四郎展図録(2200円)には、恩地の装幀事例がたくさん収められているが、赤木著に似たロゴは、大正5年3月刊の、天野藤男『田園趣味花と人生』に見られる(B-13,p75)。赤木著の文字も恩地のデザインなのだろうか。

 田中英夫『洛陽堂河本亀之助小伝』(燃焼社)によると、夢二の『夢二画集春の巻』に感動した恩地は、洛陽堂に夢二の住所を訪問したという(p233)。

 恩地孝四郎の初めての装幀は、西川光次郎の『悪人志願』という洛陽堂から明治44年5月に出た本であった(田中英夫著、p269-273)。田中氏はこの間のことを次のようにまとめている。


 亀之助が竹久の木版画稿を採って画集出版を手がけ、竹久が恩地の才能を認めて、亀之助に装幀起用を奨め、恩地はのちに青年画家なかまとつくる詩と版画雑誌刊行を願い、亀之助がこれに応えて活動を支える。『悪人志願』はその結び目を成した。

 田中著は、恩地令息が父の「おれはえかきでなくて字かきだ」との自嘲を伝えていると記している(p536、出典は、恩地邦郎「恩地孝四郎の遺したもの」、『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』「跋」、1992年、阿部出版)。

この「字かき」という言い方は、もしかすると文字デザインを意味しているのだろうか。田中著は、「さきがけをなす洛陽堂装幀本は、署名や編著者による序文跋文で明かされたものが十六点ある。画調や字体が恩地らしいものが、それとは別に百十余点かぞえられる」と述べている(p556)。赤木著もその一冊だろうか。