FAKE

  先日、森達也監督のドキュメンタリーフィルム『FAKE』を見た。

 なんと映画館で映画を見るのは3年ぶりである。

 みようと思ったのは、素材に関心があるからではなく、この人のテレビ版のドキュメンタリー『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』(2009年4月、キネマ旬報社)がおもしろかったからである。

 それについては過去記事「フェイク」を参照されたい。

 さて、見てから少し時間をおいて、頭が整理されてきた。監督参与型のドキュメンタリーであるが、前半は、S氏側の主張を伝えることに重点が置かれている。

 作曲の「ゴーストライター」を名のり出たN氏の情報だけがメディアに取り上げられているのを、S氏側の主張を伝えてバランスをとるというねらいがあると思った。

 S氏の主張は二つあって、一つは、自分が難聴であるということ、もう一つは、N氏に丸投げしていたわけではなく、構想やメロディも伝えることがあり、共作であるということである。

 映画は、これらの真偽を判断するために作られているわけではない。しかし、STAP細胞問題でも見られたように、メディア側の一方的情報が席巻するような状況を是正するという意図は明確にあるのではないかと思う。

 さて、問題は最後の15分。S氏はシンセサイザーを買って作曲を始める。その完成形がラストに披露される。S氏の音楽は感情を盛り上げる要素を重視したもので、聞いていると、どうしても感情が高まってくる。エンドマークが出て、その後にまだ映像が続く。ここをどう考えるか。

 この映画のタイトルは、『ヴェリテ』でも、『トゥルース』でもなく、『FAKE』である。エンドマーク提示以後の場面は、なぜ付け加えられたか。

 エンドマークのところで映画が終わると、世の中にたくさんある、真実を装ったフェイクと同質のものになってしまう。フェイクの構造をあらわにしておくために、付加場面があるのだ。おそらく、そうした演出法をとることは、S氏、夫人に了解を取っていると思われる。

 チラシには、FAKEの訳が載っている。「偽造する」「見せかける」「いんちき」、そして「虚報」である。

 情報のかたよりを是正するフェイクもまたありうる、と思った。わたしは、満足して劇場を出た。

 そうそう、ベストショットは、S家の飼い猫の瞳が動くところだ。あれは演出? あれだけで、1000円の価値はあった。

【編集履歴】
2023/08/07 8:18 リンク貼り直し。