拙コラム『漱石と画文共鳴』、神戸新聞(毎週土曜夕刊掲載)もあと2回となった。先日、最終回(12回)まで校了した。配信記事のため、これから掲載のところもいくつかあるようだ。そのため、記事の中身と重なることは書かないが、関連して掘り出されたことなどは、いくつか記しておきたいと思う。
「則天去私」の揮毫は、新潮社の大正6年用の『文章日記』の座右銘としてなされたことはわかっている。神奈川近代文学館の図録『夏目漱石100年目に出会う』(2016年3月)には、「十二名家文章坐右銘解説」の写真が紹介されている(53ページ)。
日記については、和歌山県立近代美術館で版画家田中恭吉の資料を調査をした際に、田中が日記を書いていることを知り、また、田中淳氏には木村荘八の日記研究(『木村荘八日記[明治篇]校註と研究』東京文化財研究所他編、中央公論美術出版、平15)があり、明治末から大正初期にかけて、青年の間で日記を書くという習慣が広がり始めていたのではないか、という実感があった。青木正美氏に『古本商売 日記蒐集譚』(日本古書通信社、昭60)があって、古書で日記が掘り出されることもあるが、普通人の日記はなかなか出会うことがない。
「則天去私」の印刷された『文章日記』を見てみたいと思っていた。荒正人の『増補改訂漱石研究年表』(集英社、昭和59年)などで、漱石以外の11名については、名前が分かっている。
「則天去私」掲載の大正6年版とは、ずれてしまうが、8年版があきつ書店にあることがわかり、少し迷ったが、購入した。
本は上製で、装幀者は名前がわからない。クロス装、背の銀の箔押しもなかなかよい。菊半截だが、博文館のは、三五判ではなかったかと思う。博文館の動向を知るために、手近の山口昌男『敗者の精神史・上』(岩波現代文庫)を見ると、大橋新太郎の代になって、大正8年にはかなり低迷していたことがわかる。
『出版巨人創業物語』(2005年、書肆心水)に収められた佐藤義亮の回想(「出版おもいで話」、昭和11年『新潮社四十年』所収)に当たるが、『文章日記』のことは記載がない。ただ、周知のとおり、『新聲』発行を支えるため、『文章講義録』を発行し、大日本文章学会(明治35年に日本文章学院に改称)を組織した。回想によれば、講義録は大正8年に廃刊したという。
大正6年版『文章日記』の1月の項に「則天去私」が載っているということは、一番打者で漱石が大きく扱われているということである。漱石の単行本の版元は、春陽堂が一番で岩波がそれに次ぐ。新潮社は、『坊っちゃん』『色鳥』の2点である。自然主義に近い新潮社が、漱石の市場価値を重視し始めていたということだろうか。
さて、あきつ書店から求めた大正8年版であるが、所有者は20歳(数え年)になろうとしている青年、しかし日記の記述は、三日坊主ならぬ1月坊主で、すぐ途絶えてしまっている。
6年版とは異なって、揮毫は有島武郎が巻頭に一名のみ。各月は、写真入りで、文学者の文章に関する、短い文章が活字で掲載されている。
1月の座右銘は、やはり漱石。7年版はどうだったかわからないが、没後も〈文豪〉としての名声は揺るがなかったことがわかる。
文章教育に熱心だったこともあって、誌面構成は工夫がある。まず、作家の座右銘。その次に見開きで日記実例(1月は広津和郎)。下段には、1月の歌として、様々な歌人の歌が掲げられている。歌の先頭は石川啄木、「年明けて緩める心うつとりと、来方を凡て忘れし如く」。広津の日記文は口語体である。
その次の見開きは、編集部の「文章月暦」。その月にふさわしい内容の文章。下段には、「一月の文題」として、「私の前途」「新年の街」「遠い友へ」などの題目例が提示されている。
次をめくると、「一情一景」とあって写真と、それにふさわしい大家の文が下段に掲げられている。田山花袋の「松の内」という文章で、これは文語体である。左のページから、ようやく一日の欄となるが、一日の下段は文例があり、潤一郎と蘆花が上がっている。この取り合わせもおもしろい。
さて、月の半ばに、切り取り線のついた小品文の投稿用紙がついている。奇数月のみ月末締め切りで投稿できるようになっている。文字数は、40字8行で320字。1月の文題は「年賀の客」「元日の午後」である。
その他単調さを避けるためか、1日以外でも、下段に日記例が入っている日が、各月2日程度設けられている。
この所有者は、1月の途中で日記をやめてしまっているが、差し障りのない一日の記述を引用してみよう。1月13日(月曜)の記述。
余輩としては、今日は工場出初だ/前田技師、杉本技師、工藤雇員に、留守中の挨拶を為す。/ぶらぶら(引用者注ー繰り返し符号)仕事に手を附けて見る。/頭は重い様だ。/「今年も容易じやないな」、私は心細くなつた。/セピヤ色の雲が重い頭の様にうつとうしく終日空をおほつて居た。
新年早々思いやられるが、セピヤ色あたりの文は、文例から学習した痕跡が読み取れるのかもしれない。口語体である。口語文を書くのに学習が必要だったということを我々は忘れている。文語文が自然と思われた時期は長かったのではないか。大正8年というのは、新聞、雑誌の評論記事もほぼ口語化が普及した時期ではなかったか。
徳田秋聲の若い写真が出ているので紹介しておこう。秋聲のいうように文章は書けないと思うが、いかがか。
おまけの「文壇諸家年齡表」も掲げておこう。一目にして老若の差が見てとれる。
最後に、「懸賞小品文」の募集要項を上げておく。「文章倶楽部」と連動していることがわかる。
いつか、著名人の無名時代の大正6年版『文章日記』を均一本で掘り出したいものだ。まあ無理だが!
ということで、久しぶりの研究ノートである。(木股知史)
〔追記〕田中恭吉の日記は、春陽堂のものだったかもしれない。
木村荘八のものは、田中淳氏によれば、小杉放庵記念日光美術館所蔵のもので、三冊のうち一冊が春陽堂の「明治四十四年 新案当用日記」である。
