◇台風のせいもあり、上田敏「うづまき」版下と格闘。江戸と明治の連続性を信じるところが敏先生の特徴。明治の中の江戸について考えているうちに、啄木のことを思い出す。
石川啄木の「時代閉塞の現状」に次のような元禄回顧の風潮に対する批判が出ている。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧《かいこ》がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇《そうぐう》した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾《いかん》なくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞《へいそく》の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷《や》めて全精神を明日の考察——我々自身の時代に対する組織的考察に傾注《けいちゅう》しなければならぬのである。
*引用は青空文庫のものを使用した。
前田恭二の大冊『絵のように 明治文学と美術』(白水社)の「第十章 元禄模様太平記」を読むと、いろんなことがわかる。
三井呉服店(三越)の高橋義雄という人物が、仕掛け人で、岡田三郎助らの画家たちを巻きこみながら、元禄模様を流行させることで消費戦略を遂行したことがわかる。
前田氏は、漱石の『虞美人草』と『三四郎』に触れておもしろい指摘をしている。一つは、虞美人草浴衣が売り出されたが、ヒロイン藤尾が死んで、結果的にそのことは、流行に冷水を浴びせることになったのではないかということ。
もう一つは、『三四郎』の美禰子の絵の着物は、元禄模様であったに違いないという指摘である。アトリエでモデルをつとめる美禰子を三四郎は見物するが、元禄模様のの着物がかかっている。画家原口は美禰子が単衣、すなわち元禄模様の着物を着てくれないと嘆いている。
もし美禰子が元禄模様の着物を着れば、三越の広告戦略と同じになるわけで、着ないことに、そこへの抵抗が見て取れるというわけである。
元禄風の女性を消費アイコンとして印象付けたのは、岡田三郎助の《むらさきしらべ》(1909年)で、東京勧業博覧会の一等入選作であるが、その後、三越の広告ポスターとなった。モデルは、高橋義雄夫人であり、夫人は若死にしたが、アイコンとして長く人々の記憶に残ったという。
美術と看板絵が近接していたのである。
さて、ここからは私が気になったこと。美禰子は三四郎に自分は、「高等モデル」だというところがある。このモデルは、画家のモデルのことを言うが、当時、美大学生を目当てに、モデル派遣業が始められ、モデルとなった女性たちは裕福ではなかった。そのことを美禰子は認識した上で「高等モデル」と言っている。
三越の広告戦略は、芸妓を使わなかった点で新しく、元禄模様、素人モデルの連想が、美禰子の「高等モデル」という発言の背後にはあったかもしれないということである。鴫沢宮における美貌の商品化と同じ問題が、三越の広告にはあったのである。
さて、こうして書いてくると、石川啄木は、そうした消費資本主義の広告戦略と「元禄」回顧が関連していることをどこまで認識していたのか、ということが気にかかる。三越も「敵」のうちに入るのか、残された文章からは判断がつかないが。(木股知史)
◇「うづまき」四まで、終わる。
