松尾少年が漱石に尋ねたこと

松尾少年が漱石に尋ねたこと

                 木股知史

1 松尾少年への手紙

 松尾寛一という十一歳の少年に宛てた大正3 年4 月24日付の夏目漱石の書簡が残っている。読者としての少年が、新聞小説『心』について質問してきたことへの返事である。まず全文を引用しておこう。*1

 あの「心」という小説のなかにある先生という人はもう死んでしまひました、名前はありますがあなたが覚えても役に立たない人です、あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね、あれは小供がよんでためになるものじやありませんからおよしなさい、あなたは私の住所を誰に聞きましたか、
    四月二十四日                  夏目金之助
  松尾寛一様

 写真版で見ると、「あなたは私の住所を」の「を」を書き損じて消して書き直している。*2相手が少年ゆえに修正を残したままにした事例はないことはない。*3ただ、文字は門弟に宛てたものと比べると、楷書に近いわかりやすさがあり、それは相手の年齢を考慮した結果だと考えられる。また、自署より相手の名を大きく書いており、漱石は子供であっても相手に敬意を示すという書簡の常識を守っている。
 文面から、松尾少年の手紙の内容について推測しておこう。『心』では、「先生」の名は明かされないが、松尾少年は「先生」の名はなんというのかと尋ねたと考えられる。漱石が「もう死んでしまひました」と書いているのは、「先生の遺書」という表題の意味するところを少年が理解するように誘導する確認の意味があったかもしれない。少年が、その仕掛けを理解していないようなことが書いてあったのかどうかはわからない。ただ、連載開始直後の書き手としては、話題になる人物が既に亡くなっているという暗示について説明しておきたかったということも考えられる。
 それから、「あなたは小学の六年でよくあんなものをよみますね、あれは小供がよんでためになるものじやありませんからおよしなさい」という部分は、漱石は少年を読者に想定していなかったことがわかる。しかし、後でふれるように、総ルビであった当時の新聞は、ある程度読み書きを学習していれば、少年でも読むことができたのである。新聞小説は大人向けであるという前提が漱石にあったが、教育制度によってリテラシーを備えた学齢期にある子供が新聞に触れる機会が生まれていたことがわかる。*4作者が想定している年齢層の読者と異なる若年層が読者になるという矛盾が起きていることを漱石は自覚したことになる。
 山本有三『路傍の石』の主人公愛川吾一は新聞を読んでいる。『路傍の石』は版が複数あるが、自伝的な要素があり、作中時間は、明治後期に設定されている。*5山本有三自身が丁稚奉公に出たのは、明治35年である。吾一は小学校を出てすぐ丁稚奉公に出るが、そこをやめて父親のゆかりがある東京の志田家の厄介になり、小僧として扱われる。この時吾一は十四歳(おそらく数え年)に設定されている。志田家の娘とのやりとりに次のような場面がある。*6

手のすいた時、吾一が新聞を広げようとすると、ひょいと、うしろからやってきて、いきなり、ひったくってしまったりする。
「そんな意地悪しないで、貸してくださいよ。」
「何が意地悪よ。小僧のくせに新聞よむなんて、ぜいたくだわ。」
「新聞ぐらい、読んだっていいじゃありませんか。ちょっと貸してくださいよ。読みたいものがあるんですから……」
「あたしも読むものがあるのよ。あたしだって、まあだ続きものをよんでやしないじゃないの。」

 この場面は、子供も新聞の「続きもの」を楽しみにしていたことを示している。「続きもの」が新聞小説である可能性は高いだろう。学校にいけない吾一のような境遇にある者にとって新聞というメディアが重要な意味を持っていたことがわかる。
 最後に、住所をどこで知ったのかを、漱石は尋ねているが、十一歳という年齢の少年が独力で調べることはほぼ不可能で、誰か大人に聞いて教えてもらったと考えていたことを示している。

2 松尾寛一について

 松尾寛一の経歴については、調査が蓄積されてかなり明確になってきた。松尾少年宛漱石書簡が姫路文学館に寄贈されたことが契機である。
 松尾寛一の略歴は次のとおりである。*7

寛一は1902(明治35年)7月7日、兵庫県印南郡西神吉大国村(現在の加古川市西神吉町大国)で10人兄弟(男3人・女7人)の長男として生まれる。西神吉尋常小学校を出て、姫路師範学校に入学し。姫路で寄宿生活を送る。1920(大正9)年の夏、長野県での演習の際に肺炎をおこし結核を発病。約2年半の闘病ののち、1923(大正12)年1月19日、20歳で亡くなった。

 また、現在では、圓治という名前もある松尾博市という人物が、寛一の父であることがわかっている。*8

父は、村役場の助役(一時西神吉村村長)をしながら書画や骨董を嗜み、「蘭雪」「春陽」などの雅号も持つ風流人であったとされ、長男寛一はその影響大いに受けて成長したことが想像できる。

 大正4年9月24日付の松尾博市宛の漱石の葉書が、漱石全集に収められている。『三四郎』『硝子戸の中』『心』『道草』の発行所についての問いに答えた内容である。*9また松尾博市が漱石に出した、大正5(1916)年8月6日付の絵葉書が中島国彦・長島裕子編『漱石の愛した絵はがき』(2016年8月、岩波書店)に掲載されている(122頁)。この絵葉書で松尾博市は、「貴著道草、三四郎、硝子戸ノ中、心、全部需メ拝読中ニ御座候 目下明暗ヲ拝読中ニ御座候」と記している。この時、『明暗』は新聞連載中である。住所は変わっていない。絵葉書の図柄は「三木町 上の丸公園」の写真である。返事を出すのにほぼ7ヶ月が経過しているが、今と違って、地方で書物を手に入れるのには相応の時間がかかり、礼状が遅くなったものと推察する。
 父博市は息子の寛一が手紙を出したことは知らなかったのか、あるいはそれを知って漱石に興味を抱いたのか、そこのところはわからない。ただ、地方名士の長男であった寛一少年は、やがて姫路師範学校に進学したが、体調を崩し若くして亡くなったことがわかっている。
 出久根達郎『漱石先生の手紙』(2001年4月、NHK出版)が、兵庫県御影町在住の前川清二宛の3通の漱石書簡に注目している。「間島さん(引用者注−間島保夫、古書店主)の御示教によると、前川清二は、明治五年、印南郡平荘村に生まれ、慶應義塾に学び、神戸に住んで、大正汽船という船会社他を経営、実業家となりました。晩年は郷土史の研究家となり、昭和十八年に七十二歳で亡くなりました。『今昔談』『東西談』他の著作があるそうです。」と書いている(205頁)。前川は、自ら所望して『草枕』の一節を漱石に揮毫してもらったことがある。出久根は児童文学者西村恭子の調査を紹介して、「松尾家は江戸末期から綿布の仲買で財を成し、当主は代々嘉七郎を名乗った。三代嘉七郎の長男が寛一である。(以下略)」と記している(207頁)。
 間島保夫「神戸と漱石、深いエニシ」(2000年1月8日、「神戸新聞」夕刊第5面、コラム「知性都市21」)という記事がある。1999年に神戸の古書店5店が集まり、かつての神戸陳書会にちなんで、『陳書』という目録を発行し、神戸陳書会の『陳書』の総目次、解説、会員のプロフィルを掲載した。神戸陳書会とは、昭和6年に神戸の民間書誌愛好家、太田陸郎、川嶋右次、磯崎夏次郎らが集まって始められた集まりで、研究誌『陳書』を発行した。「陳書」12号の前川清二の「小閑記」を紹介し、漱石との交流にふれている。*10松尾寛一宛書簡にもふれ、宛先の「印南郡大国村」は、松尾博市の住所「印南郡西神吉」と同じで、「恐らく少年の父あたりではないだろうか」と推測を記している。
 西村恭子「漱石の〝こころ〟を追った少年」(2000年7月30日、「神戸新聞」23面)という記事がある。松尾寛一宛書簡が姫路文学館に寄贈された経緯について記している。前記の間島保夫の記事がきっかけで、松尾家と連絡を取り、文学館への寄贈を進めたところ快諾された。寛一の末弟の金次郎氏は、寛一の父は圓治であるが、一時期「博一」と名乗っていたことを思い出し、過去の博一宛の手紙を見出した。漱石宛の絵葉書は「松尾博一」と自署してあり、「博市」ともなのっていたことになる。漱石の住所は、父が教えたと考えられるとしている。前川清二から圓治宛に多くの書物が送られていた。大正2年生まれの金次郎の名は、漱石の本名金之助にちなんだものではないかと推定されている。

3 松尾少年は、『心』をどこまで読んでいたか

 漱石の『心』は大正3(1914)年4月20日〜8月11日まで東京・大阪の両「朝日新聞」に110回連載された。単行本は、大正3(1914)年9月20日、岩波書店から刊行されている。短編連鎖方式で、新聞連載時は、プレートに「心」「漱石」「先生の遺書」が表示されている。「先生の遺書」の表題は、連載期間中ずっと表示されていた。単行本では、3部構成に編集されたことは周知のとおりである。
 松尾少年は、連載の何回目まで読んで、手紙を書いたのだろうか。出久根達郎は、次のように推測している。*11

 第一回が四月二十日である。漱石が松尾少年に返事を出したのが四日後の午後。ということは、当日の午前に少年のハガキ(たぶん)を読んだとして、この当時の郵便は近畿から東京に二日間で届いたようだから、逆算すると少年は連載第三回を読んでただちに投函したことになる。

 近畿東京間の郵便が二日で着いたという根拠が記されていないので、なんとも言えないが、二回目までは読めた可能性は高い。手紙あるいは葉書の質問の内容は、先生の名前を尋ねるものであるが、質問の動機は、一回目を読んだだけでも生じる可能性はあったと言えるだろう。
 松尾少年の心理を追体験するために、新聞連載の形の『心』を三回まで読んでみよう。名前を聞く動機は、先に述べたように一回目にある。よく知られているが、最初のパラグラフを引用してみよう。*12

 私は其人を常に先生と呼んでゐた。だから此処でもたゞ先生と書く丈で本名は打ち明けない。是は世間を憚かる遠慮といふよりも、其方が私に取つて自然だからである。私は其人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云ひたくなる。筆を執つても心持は同じ事である。余所々々そよそしい頭文字抔はとても使ふ気にならない。

 「先生の遺書」という表題や、「記憶」という言い方で、「先生」はすでにこの世にないことが暗示される。親愛の情と「先生」という記号的呼称の矛盾についてはこれまで多くの指摘があるが、そこは問題にしないでおこう。あくまで三回までで何が読めるかを考えたいからである。
 学生である「私」は友人の誘いを受けて暑中休暇に鎌倉の海水浴場にやってくる。友人は、母の病気という報知で故郷に呼び戻されて一人になるが、「私」は海水浴場にとどまった。「本名を打ち明けない」ことに松尾少年は、疑問を感じた。その動機はどのようなものか。「私は実に先生を此の雑踏の間に見付出したのである。」という。「雑踏の間」とは、人々の集まりを示す表現だが、どうして「先生」を見いだすことになったのか。
 二回目では、「先生」は西洋人を連れている。「私」は同じ掛茶屋でそれを目撃する。一直線に沖まで出て戻ってくる。西洋人連れであったことは、「私」が「先生」を「雑踏の間」二見つけ出すための有力なサインとなったと思われる。語学力がなければ、西洋人と会話することはできないからである。「私」は「どうも何処かで見た事のある顔の様に思はれてならなかつた。」という感懐を抱く。先生は泳いで沖に出るが、「私は急に其後が追ひ掛たくなつた」。結局、すれ違いに終わり、「先生」と言葉を交わすことができなかった。
 三回目では、西洋人は姿を見せず、「先生はいつでも一人」であった。「先生」は浴衣の砂を払うときに眼鏡を飛ばしてしまうが、「私」は眼鏡を見つけてあげる。次の日、一緒に沖に出て、仰向けに海に浮か部という時間を共有した。それから「私」は「先生」と懇意になったのである。「私」は「先生」と呼びかけるのは、「年長者に対する私の口癖」だと言った。西洋人のことを「先生」に尋ねると、日本人との交際が少ないのに「外国人」と近づきになったのは不思議だと「先生」は答えた。「私」は「先生」を何処かで見かけたように思い、相手も自分と同じような感じを抱いてはいないかと尋ねてみるが、「何うも君の顔には見覚えがありませんね。人違ひぢやないですか」というそっけない答えが帰ってきた。
 これが三回目までの進展である。終わりを知らないという前提で、この三回について考えると、語りが矛盾を含んでいるのではないかと感じられるところがある。年長者に対する口癖の呼びかけであるという「私」の「先生」に対する説明は、意図してはいないかもしれないが、ある種の隠蔽を含んでいる。冒頭のパラグラフを踏まえると、そこには照れ隠しのようなものが含まれているようにも思える。西洋人と会話する教養がある人は、大学人ではないのか、「何処か」というのは大学及びその近辺のことではないのか、という連想が働く。「先生」は文字どおりに取れば、多くの場合教育に携わる人という意味を持つが、「私」はその人を、そうした経歴を持つ人と考えて、「先生」と呼んだとも考えられる。この点については、石原千秋氏の明快な指摘がある。*13

〈私〉は「風変わり」な「西洋人」を連れた「大学出身」の日本人に出会っていたのだ。だからこそ〈私〉はその男を「先生」と呼んだのだ。それを、個人と個人との運命的な出会いとでも読んでしまうことは、この時代の高等教育が隠していた様々な制度性を、それと知らずに隠蔽してしまうことになる。

 松尾少年の問いについて、これまでの指摘は、子供らしい疑問によるものというものが多い。宗像和重氏は、「あの「先生」は今どうしているのですか、本当の名前はなんというのですか、と勢い込んで訊ねているのだろう」と述べている。*14
 長島裕子氏は、「小学生は、「先生」を実在の人と思い、名をたずねてきたのであろう。(中略)小説という虚構と、現実との区別がはっきりしない子どもに対して、正面からわかりやすくていねいに答えた手紙となっている。」と述べている。*15
 長島氏は子供が虚構と現実の区別がつかないという前提に立っているが、小説を読むということはその区別がつかなくなることを楽しむという側面もあるということを指摘しておきたい。つまり、松尾少年の素朴な疑問は、案外小説の組立の根本にねざしたものであるかもしれないということである。「先生」という呼称は、物語の始まりを、ミステリアスなものにしている。それは、教養ある学歴社会に属するものならすぐ理解できるが、その外にいるものには固有の存在である人を記号のように扱っているように思われるのだ。「どうして名前がないんですか」という疑問が松尾少年の心に起こっても不思議ではない。
 謎は、実際に仕掛けられている。面識があると思った「私」と、それを否定した「先生」の食い違いである。どうして初対面の人を最初から「先生」と呼ぶのか。閉ざされた学歴共同体の暗示があるが、そこに深い理解を及ぼすことができない十一歳の少年が、変な始まり方だ、と思っても不思議はないのである。
 石原氏の指摘を踏まえれば、「この時代の高等教育が隠していた様々な制度性」に対して地方名士の家に生まれた子供が抱いた素朴な異和感が手紙を出す動機であったのではないだろうか。

4 時代背景を考える

 明治期には、文学書を読むことは教育上好ましくないと考えられていた。高橋一郎は、は、明治中期までは、現代とは異なって「小説は、完全に俗悪メディア=教育の敵とみなされていた」とし、欲望の解放によって、青年層に風紀問題が頻発するようになり、その原因として、恋愛などを肯定的に描く小説が非難の対象となったと指摘している。しかし、明治末期には、青年層の堕落を防ぐ道徳的な楯として、小説の効用が見直され、読書教育が開始されたという。*16
 漱石は、『彼岸過迄』の序文で次のように記している。

東京大阪を通じて計算すると、吾朝日新聞の購読者は実に何十万という多数に上っている。その内で自分の作物を読んでくれる人は何人あるか知らないが、その何人かの大部分はおそらく文壇の裏通りも露路も覗いた経験はあるまい。全くただの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつつ穏当に生息しているだけだろうと思う。自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人の前にわが作物を公にし得る自分を幸福と信じている。

 この「自分はこれらの教育あるかつ尋常なる士人」というのは、漱石が想定していた新聞小説の読者像を言い表した言葉である。引用の前の部分では、文壇内で盛んな自然派や象徴派といった文学思潮のレッテルについては、自分は全く関心がないと漱石は書いている。漱石は文壇事情などとは無縁の中間層のリテラシーのある層を読者と考えている。そこには、小学生は含まれていなかったであろう。だからこそ、読むんじゃありませんと松尾少年に漱石は注意を与えている。しかし、「何十万」という読者の中には、漱石の想定からはみ出す人々もいたはずである。大杉重男氏は、漱石のいう「教育あるかつ尋常なる士人」とは、「一定の学歴を持つ中流階級の成人男性」であり、「農民」や「女性」、「植民地」の人々は除外されていると指摘している。*17
 松尾少年のような子供も除外された人々の中に含まれるだろう。『心』は教養ある「先生」の悪と救済を描こうとしたが、物語というものは思考実験としての側面をもっている。思考実験として、あるいは読者の関心を引くために、物語が反道徳的な設定に傾くこともある。不謹慎な物語を書くという自覚は作者にあり、子供は特に読者に加えたくなかったとも言える。しかし、新聞メディアの「数十万」の読者は、漱石の想定した「教育あるかつ尋常なる士人」の範囲に収まるものではないことを、松尾少年の問いかけは証明しているとも言えるのである。

5 〈青年〉という存在

 田嶋一氏は、「共同体の解体が青年の登場を促したという仮説」に立ち、「社会史」の観点から「三層の青年群」が見えてくると指摘している。*18
 まず「第一層」は、「共同体の解体の中から現われ、新たに国家によって創出された中等、高等教育機関に在籍し、やがて新中間層の上層部を形成することになるものたちとその子弟、および旧中間層の子弟の一群。彼らは、書生、学生として、体制化、エリート化され、モラトリアムを享受し、共同体から離れて生きてゆく術を手に入れることになったものたちである。」という。「第二層」は、「青年でありたいと願い、青年期を求めて共同体から都市社会への脱出を試みて、成功したり、成功しなかったりするものたちの一群。第一層のすべては当初ここから現れてきたのであり、第一層の供給源となっていた層である。彼らは第一層への社会移動に成功したものたちの子女たちよりもはるかに深く共同体や伝統的な社会(職人社会など)の内部に生活の基盤を持ち、青年期を自力で獲得しなければならなかったものたちである。」という。
 最後の「第三層」は、「共同体の内部に閉じ込められ、人格や行動の中に若者や娘の特性を色濃く残している者たちの一群。官製青年団によって組織化され、戦前の青年の大部分を占める層である。彼らは青年団のメンバーとして青年というレッテルをはられはしたものの、青年期の実質は剥奪されていたのである。この層から身を起こして、都市の青年、学生をモデルとして青年期を獲得しようともがいていたのが、第二層ということになる。」と規定される。
 田嶋氏の分析を参照すれば、地方名士の長男である松尾少年は、この「第二層」に属していると考えられる。地元の姫路師範学校への進学の選択は、長男であり、家を継がなければならない立場ゆえのものだと考えられる。また、大学への進学は考えない選択である。田嶋氏は、第二層の青年たちに、山本有三『路傍の石』が支持されたと指摘している。「この小説の人気は、進学を希望して果たせず、青年期が約束されている中、高等教育機関の外で青年期を実現しなければならない層の広がりを示している」という。*19
 伝統的共同体の名士の家は、その子弟を教育によって、階層を上昇させるという新社会への対応を迫られていたのではないか。「第二層」から「第一層」への移行が使命であったが、そこには困難もあった。『心』の「K」や「先生」は、その路線からのドロップアウト組と見なすこともできる。
 『心』の「先生」と「私」は、故郷の共同体から離脱し、教養の同質性によってつながる「第一層」に属しているが、「先生」は立身の道から脱落し、危篤の父をおいて先生のところに向かう「私」の将来は、未定のままである。
 松尾少年は、鍛錬と作業教育を重視していた姫路師範学校に進学する。*20田嶋一氏は、大正期の師範学校は、「高校進学希望者からは〝二部大学〟と蔑称されていた」と指摘している。*21成長した後に、松尾寛一は『心』をあらためて読む機会を持っただろうか。「第二層」の青年として、葛藤をかかえていたとすれば、『心』の「先生」と「私」の関係は特権的なものに見えただろう。
 木村洋氏は、「明治後期に成立したのは、以上のような文学者と青年の間の排他的な連帯、つまり当局や保守派論者たちから非難された文学者こそが青年の敬慕の対象となるという構図だった。」と指摘している。*22厭世家が敬慕される『心』の構図もそこに重なるという。いわば、「第一層」の青年が制度からこぼれおちるところに〈文学〉が成立するのである。
 『心』は、一読すると、高等教育の制度が作り出した共同性の狭さを批判しているかに見える。しかし、立身出世という国家的倫理から逸脱した遊民的存在(その経済的基盤を支えるのは、実家の財産の分与や配偶者の資産である)が〈文学〉の根拠とされることで、高等教育の制度が作り出した閉鎖的な共同性はそのまま保存されることになる。〈文学〉なるものの空虚さは、こうした成立の起源にも深くかかわっている。「先生」という呼称が口癖のように使われ、それが通用するのは閉ざされた教養共同体である。少年は、そこにちょっとした異和を感じた。それを受け取って沈思すると、『心』という小説が抱えている根底的ないやらしさが浮かび上がってくるのではないだろうか。


*1『漱石全集 第二十四巻 書簡 下』(1997年2月、岩波書店)286頁。書簡番号2029。宛先は「兵庫県印南郡大国村」。
*2図録『『こころ』から百年 夏目漱石 漱石山房の日々』(2014年10月、姫路文学館) 10頁。
*3例えば、図録『100年目に出会う夏目漱石』(2016年3月、神奈川近代文学館)に掲載されている書簡で、書き損じを残しているものを任意で抜き出すと、1905年3月10日付野村傳四宛て書簡、1913年4月2日付山本笑月宛書簡、1906年10月26日付鈴木三重吉宛書簡などけっこうある。
*4宗像和重「「こゝろ」を読んだ小学生──松尾寛一宛漱石書簡をめぐって──」(2001年7,8月、「文学」2巻4号)は、松尾少年が新しい教育制度のもとで学んだ世代だと指摘している。 頁。明治40年3月の「小学校令中改正」で、尋常小学校6年、高等小学校2年(ただし3年に延長可)となり、義務教育の年限が4年から6年に改められた。この改正は明治41年から施行されたので、「四十二(一九〇九)年に尋常小学校に入学したと考えられる松尾寛一は、新しい学校制度のもとで、六年間の義務教育を受けることになったほとんど最初の世代の一人ということになる」と宗像氏は指摘している。61頁。
*5初編は「朝日新聞」東京大阪昭和12年1月〜6月、新編は「主婦の友」13年1月〜15年7月中断。
*6引用は「主婦の友」版底本の新潮文庫版(平成15年1月改版)による。268—269頁。
*7図録『『こころ』から百年 夏目漱石 漱石山房の日々』(前出)、10頁。
*8同前、10頁。
*9『漱石全集 第二十四巻 書簡 下』書簡番号2305、463ページ。内容は、『道草』が一〇二回で終了すること、『三四郎』が春陽堂、『硝子戸の中』『心』が岩波書店、『道草』が印刷中で同じく岩波書店が版元であることを伝えている。宛先住所は、「印南郡西神吉」となっている。
*10姫路文学館に提供してもらったコピーでは、前川古稀生の名で「文縁三題」というエッセイが『陳書』第12輯(昭和16年5月、神戸陳書会)に掲載されている。「漱石と小学生」では、松尾寛一のことに触れ、表装された漱石書簡の写真も掲げられている。「運命の書幅」では、英国人の蔵書をオークションで競落し、リストを漱石に送ったところ、漱石が五部を所望したことで、文通が生まれたこと、その後、前川の友人が漱石夫人の妹と結婚したこともあり、『草枕』の一節を半切に揮毫してもらったことが記されている。間島保夫の記事で「小閑記」となっているのは、この「文縁三題」のことと思われる。
*11「『こゝろ』と兵庫」(図録『『こころ』から百年 夏目漱石 漱石山房の日々』前出、所収)11頁。
*12玉井敬之、鳥井正晴、木村功編『夏目漱石集「心」』(平成3年12月、和泉書院)の初出復刻を使用した。ルビは省略した。
*13石原千秋『反転する漱石』(1997年11月、青土社。2016年10月、増補新版)「高等教育の中の男たち 『こゝろ』」(初出、1992年11月、「日本文学」)引用は増補新版による。52頁。
*14宗像和重「「こゝろ」を読んだ小学生──松尾寛一宛漱石書簡をめぐって──」(前出)65頁。
*15中島国彦・長島裕子『夏目漱石の手紙』(1994年4月、大修館書店)207頁。
*16「明治期における「小説」イメージの転換──俗悪メディアから教育的メディアへ──」(1992年2月、「思想」)177頁。
*17大杉重男「アンチ漱石 固有名批判」(2004年3月、講談社)284頁。
*18田嶋一『〈少年〉と〈青年〉の近代日本 人間形成と教育の社会史』(2016年3月、東京大学出版会)「第二部 第1章 共同体の解体と〈青年〉の出現」128—130頁。初出は、『叢書〈産む・育てる・教える──匿名の教育史〉1 〈教育〉──誕生と終焉』(1990年6月、藤原書店)。
*19同前、130頁。
*20「神戸大学ウェブサイト」「発達科学部の前身」http://www.kobe-u.ac.jp/info/outline/history/hattatsu.htmlによると、「1900(明治33)年、兵庫県師範学校は兵庫県第一師範学校と改められ、姫路に兵庫県第二師範学校が設立された。これらの師範学校は1901(明治34)年にそれぞれ兵庫県御影師範学校、兵庫県姫路師範学校となり、1902(明治35)年に設立された兵庫県明石女子師範学校と合わせて、「三師範学校」の体制が確立した。」という。『姫路師範三十年の教育』(昭和6年6月、兵庫県姫路師範学校同窓会編、兵庫県姫路師範学校同窓会発行)によれば、鍛錬主義を掲げ、作業教育を重視していた。松尾寛一が病を得た長野県の演習というのは、おそらく姫路師範の独自の作業教育プログラムである可能性が高い。
*21田嶋一『〈少年〉と〈青年〉の近代日本 人間形成と教育の社会史』(前出)「第一部 第3章 青少年の自己形成と学校文化」419頁。初出は、「若者の形成と青年期教育」(1977年、「教育学研究」第44巻第2号)。
*22『文学熱の時代』(2015年11月、名古屋大学出版会)「第12章 自然派ぶりの漱石」286頁。

◇昨年、「漱石の画文共鳴」というコラムを連載した際に、松尾少年宛の漱石書簡にふれました。そのときから気になったことがあり、資料を集めて、研究ノートを作成しました。わたしは、文学研究者であり、〈文学〉の虚妄にかかわる当事者ですが、漱石を崇拝してしまうことでおちいるいやらしさを少しでも言葉にしてみたいというのが、本稿の動機です。
◇本稿を引用したり、参照したりする場合は、出典を明記してください。


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