関節はずしの作品論

今、校正しているのは「芥川龍之介『地獄変』覚書ーイメージの相互関連性の視点から」という論考である。
作品論というのはうっとうしくて、複数の意味の可能性なんていいながら、結局は一つのラインに読みをしぼっていき、読み方競べみたいなことになる。それって感想の言い合いではないのか、といわれても仕方がないところがある。

寺山修司ではないけれど、描かれていないことも作品であるといってしまえばどうなるのか。
対象作品がエンドになるのではなく、それ以後の反響等も視野に入れればどうなるのか。
などなどの問いかけを生かして、美術を取り込んだ作品の、イメージの相互関連性の系を取り出してみたらどうなるだろうと思って書いたものである。

ポイントは二つのタブー侵犯。
一つは、良秀の娘の焚死にかくされたエロティシズムの問題。
もう一つは、死を描く絵画という系譜の問題である。

良秀の娘は、内面を封殺されて焚死していくが、そこにはジャンヌ・ダルク的聖性の受難と、旧劇の責められる女性のエロティシズムという両極がかくされているのではないか、ということを考えた。

また、死を描くということは、宗教でない場合、リアリズムのタブーを意味するのではないか。
Linda Nochlin,Realism,Pelican Books,1971. という本があって、Death in the Mid Nineteenth Centuryという章で、ゾラの『制作』の主人公の画家、クロード・ランティエが、自らの死んだ子ども描く場面に注目している。リアリズムの真実追究が倫理意識を上回ってしまうという意義をリンダ・ノチリンは見出している。19世紀には、娘の死を描くティントレットという画題が複数見られる。
フローベール『感情教育』のペルランや、絵画にも豊富な先行事例があることが指摘されている。
『地獄変』でも、芸術至上主義ではなく、リアリズムの極北が問題になっているのではないかと考えた。

地獄絵がよくできていればいるほど、宗教的機能は強まるので、救済というコーティングによって、二つのタブー侵犯は隠されてしまうのである。

求心的な文献の相互影響ではなく、遠心的なイメージの相互関連を考えた。

今年中に、ウェブ公開されるので、そのときにお知らせする。




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