戦争と美人絵はがき

使用済みの絵はがきの持つ意味について、実物を購入して初めて納得することがあった。
これは一目見て、あの有名な洗い髪のお妻だとわかった。
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 征露第二年とあるので、明治38年である。築港を出たとあるので、大阪から出征したのであろう。
はがきの下に「三都百美人 其卅一」とある。お妻は、髪結いが間に合わず、洗い髪のまま写真撮影に臨むしかなかったが、それがかえって人気を呼んだのである。
津田青楓『漱石と十弟子』(2015年1月、芸艸堂、元版は1974年、初刊は1949年世界文庫)には、「百鬼園のビール代」という一編があり、「日記抄」として、木曜会でのやりとりが記録されている。漱石の女性の好みに話柄が及んだ時、鈴木三重吉が「洗ひ髪のお妻て言ふ趣味かな。」と語っている。漱石はにやにやしているだけだった。
三重吉は、漱石の絵はがきにロングヘアの女性が描かれており、そこから、洗い髪のお妻を連想したのかもしれない。
お妻の写真はイコンとして長きにわたって流通したことがわかる。
日露戦争への出征兵士も、身内に無事を伝えるはがきに、お妻の美人絵はがきを選んでいるのである。
印刷は石版だろう。
洗い髪のロングヘアの美人絵はがきは、他にも数葉見出したが、いつもの遠慮する貧乏性が発揮されて買わなかった。ああ、買えばよかった。

〔付記〕2017年2月28日。野口冨士男は「三代の芸者」(昭和57年2月、河出書房新社『断崖のはての空』所収)というエッセイで次のように記している。「わが国に絵葉書がはじまったのは明治三十三年、政府が私製葉書の使用を許可してからである。最初は平凡な名所絵葉書だけであったが、日露戦争がはじまって兵隊が満州にわたると、慰問のための美人絵葉書があらわれて、国内でも大流行をきたした。」慰問で手に入った美人絵葉書を通信に使ったという可能性があるのだろう。

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