第二次『明星』が自刻の木版にこだわり、印刷も紙型によらずに行っていたことは過去記事《第二次『明星』の自刻木版》で紹介した。今、もう一度引用しておく。
大正13年10月(第5巻5号)の号の編集後記「一隅の卓」で、与謝野寛は、次のように記している。
「明星」の用紙は震災前と同じく、特にこの形に王子製紙会社の厚意で漉いて貰つてゐる。この紙質は先年来同社で「明星」と命名されてゐるものである。それから現に東京で発行する雑誌で原版(即ち紙型で無く)のままで印刷してゐる雑誌は「明星」以外に殆ど無いと云つてよからう。印刷の美しいのは主として之がためである。また表紙は初めから田中松太郎氏の工場で印刷してゐるが、本号から表紙の裏面(広告)も田中氏が印刷されるので、裏面の文字や罫が表紙へ透いて出ることが無くなつた。
与謝野寛の「現に東京で発行する雑誌で原版(即ち紙型で無く)のままで印刷してゐる雑誌は「明星」以外に殆ど無いと云つてよからう』という発言は、ほとんどが、大正末期では、紙型による、つまり紙型からとった鉛版による印刷になっていたということを示しているということだろう。
また、特注の用紙を使っていることも、商業誌とは一線を画す心意気を示している。
現在の視点から見ると、このような試みは、文化資本の自己形成の可能性の実験のように思える。資本はすべて悪という偏見にとらわれがちなのであるが、文化資本を国家資本とは別に形成しようとすることは大事だということを、山本哲士氏の著作から教えられた。文化資本を形成する場所は大正日本にあったかという視点が、第二次『明星』をみるときには重要になってくる。
第二次『明星』については、過去記事《第二次『明星》、《第二次『明星』創刊号(その1)》がある。つづけるつもりだったが、中絶してしまっている。版面分析でふたたび関心が戻ってきたことを生かして掲載版画について考えてみたい。
第二次『明星』に、海外作家の作品も含めて、自刻の版画が多数掲載されていることは意外に知られていない。
まず、1921年11月の創刊号の石井柏亭の《ボルゲエゼの園》で右に「自刻」という活字が見られる。
黒白のコントラストが特徴の木版で、全体図を掲げよう。
ごく普通の木版である。
中央左の二人の人物像を拡大してみる。
紙質にもよるのだろうが、距離を置いてみた時とはまったく印象は異なる。黒一色といっても、拡大するとまだらじょうになっていることがわかる。木版面と紙質の両方が作用してこのような状態になっているのだと考えられる。
先ほども触れたように、与謝野寛の言によれば、木版面からの直接印刷だということになる。
もう一点、海外作家のものを見てみよう。ラウル・デュフィの《人魚》である。これも「自刻」と入っている。
解説に「ポオル・ヂユツフイイ」とあるのは、まちがいである。
デュフィは木版を多く作っている。あべのハルカス美術館で展覧会があったが、なかなかの出来で感心した。
第二次『明星』では、海外作家の作品の印刷はどうしたのだろう。版木を送ってもらったのだろうか。刷ったものを複製したのだろうか。「自刻」とあるので、版木からの印刷、あるいは、版木からとった紙型鉛版による印刷と考えるのが普通で、複製はあり得ないだろう。
そこが、いまのところ調査不足でよくわからない。
人魚の手先の部分を拡大してみる。
さあ、どうだろう。どう言い表すか、こちらの言語表現能力も問われる。
柏亭の場合と微妙に感触が異なるといえるだろうか。インクのかたまり部分の形状に特性があるように見える。
さて紙型鉛版、つまり鉛の金属面なのか、木版面なのかどちらだろう。
性急な結論は避けておこう。(木股知史)
【編集履歴】
〔付記〕2025/04/01
noteに《木版もいろいろ:『明星』第14号、藤島武二《星夜》》という記事を書いた。
木版の複製版のことを取り上げた。
今の時点では、デュフィの《人魚》は、原版を送ってもらい、直接印刷したものだという可能性が高いと考えている。
