『學鐙』春号は、「特集夏目漱石」

『學鐙』春号は、「特集夏目漱石」。
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 『學鐙』も月刊から季刊に移行するようだ。この春号が、漱石特集であることを偶然知って、版元に注文した。多くの人が、見開き2頁でエッセイを書いている。2篇気にかかるものがあったので、紹介しつつ、思うところ述べてみたい。研究ノートのひとつだと考えていただければありがたい。 
       
池端俊策「ドラマ「夏目漱石の妻」で書かなかった人物達」
 まず、池端俊策氏の「ドラマ「夏目漱石の妻」で書かなかった人物達」。この人は、ドラマ「夏目漱石の妻」の脚本家である。池端氏は、「明治四一年から四三年」、漱石が修善寺の大患で倒れるまで、「漱石の回りには時代を象徴する多彩な人物達」がいて、「その人達との関係性を見ることで漱石が分かると思った」という(12頁)。
 しかし、妻鏡子の視点からドラマが展開するため、登場させたくともそういかなかった人物がいるという。その一人が石川啄木だという。池端氏は、漱石の啄木への優しさと、小説『坑夫』のもととなる足尾銅山の体験を漱石に話した荒井伴男への親切は似ているものがあると書いている(13頁)。
 わたしが連想したのは、大杉栄の教えを受けた荒川義英と創作版画誌『月映』の版画家田中恭吉の関わりである。田中恭吉は、啄木、白秋、牧水、勇の影響を受けて短歌を作っていたが、独特の「短詠」という詩形も工夫した。その田中恭吉の短歌について評論を書いているのが、大杉栄の影響を受けた荒川義英である。このことはかつて記事(《大正期の啄木受容①》にした。
 社会の革命を志向するものと、内面の更新を目指すものが、石川啄木を媒介にして結びついていることがたいへんおもしろいと思ったのである。木下杢太郎の戯曲『和泉屋染物店』には「心の革命」という概念が出てくる。啄木は四一年、四二年に杢太郞と深い交渉を持っている。啄木は、社会の革命と内面の革命がクロスする場所に立っていた文学者なのである。池端氏は、『抗夫』、『煤煙』事件、大逆事件という流れに、啄木と漱石の関わりを重ねようとしている。関川夏央・谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』5部作も、同じような構想に基づいていた。いわゆる「社会と自分」の複雑な関係についてとらえるためには、小説を書く内的な視点だけではなく、それら事象の外に立つ総合的な視点が必要だと、漱石は考えていて、「則天去私」とは、そうした視点のことを言うのではないかとわたしは感じている。

祖父江慎「不安定な文字、不安定な本ー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」
 次に、おもしろいと思ったのは、デザイナー祖父江慎氏の「不安定な文字、不安定な本ー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」である。これは、内容が加熱した論議であふれかえっているのに、その装幀については論じられることが少ない『こころ』について考えた好エッセイである。 
 『心』『こころ』『こゝろ』という表記の並立、また、「心」という書体の豊富さに祖父江氏は注目する。そして石鼓文の拓本から採字した漱石の装幀について興味深い指摘をしている。下絵をコンピュータ処理していて気がついたという。祖父江氏によれば、表紙を伏せて開いたときの右上部に「馬」の文字があり、背の著者名の下部に、雄鹿、雌鹿の「鹿」の文字があり、併せて「馬・鹿」となるという。祖父江氏は、本文の、「先生」が「K」に言い放つ「向上心のないものは馬鹿だ」という言葉に関連を見ている(29頁)。
 『こころ』は漱石の自装本である。ここで、少し復習をしておこう。清国の領事館にいた橋口貢が漱石に石鼓文の拓本を送ってきた。大正3年8月9日付の橋口宛書簡で、漱石は「偖御恵贈の拓本は頗る珍らしく拝見しましたあれは古いのではないでせうが面白い字で愉快です、私は今度の小説の箱表紙返し扉一切合切自分の考案で自分で手を下してやりました其内の表紙にあれを応用しました」と書き送っている。岩波書店昭和3年版の『漱石全集』の装幀などにも使われたため、『こころ』の装幀はよく知られるようになった。
 しかし、その意味を探る文献は少ない。数年前、石鼓文の資料にあたっていて、杤尾武氏に「漱石と石鼓文の装幀」という論(『成城文芸』167号、平成11年7月)があり、単行書『漱石と石鼓文』(平成19年3月、渡辺出版)に収録されていることを知った。近代文学研究の側の文献目録ではなかなか分からなかったのである。杤尾論文は、石鼓文の概略を示し、漱石が装幀に際して行った採字のプロセスを復元している。杤尾氏は、「表紙の版下は漱石が自ら「石鼓文」を臨書し、伊上凡骨氏に木版を作ってもらったことになる」と整理している(引用者注ー引用は単行書によった。13頁)。
 杤尾氏があげている、主要先行文献は、松岡譲「全集の装幀」(昭和3年版「漱石全集月報第十七号」、昭和4年7月)、松村茂樹「『漱石全集』の装幀からー漱石と呉昌碩そして長尾雨山」(『漱石研究』第九号、平成9年11月)である。後者は、呉昌碩の石鼓文臨書がいくつかあり、それと漱石の関連に言及している。
 津田青楓(大正2年7月2日)や橋口貢(大正2年7月3日)の書簡で漱石は、呉昌碩の作品を見た感想として「文人画のアンデパンダンだから面白い」と書いている。杤尾氏は「アンデパンダンとはフランスに於てアカデミーに対抗して作られた美術団体であり、その展覧会を指すが、反アカデミー風は呉昌碩・漱石の共通点であろう」と指摘している(15頁)。石鼓文の臨書については、正統的な諸本がアカデミー風であり、呉昌碩や漱石の臨書は「破格体」だと、杤尾氏は述べている(15頁)。杤尾氏は、漱石の臨書は、「呉昌碩の体に比して鈍重で躍動感に欠けると思える」と評している(16頁)。
 ただ、杤尾氏は「「石鼓文」そのものが刻石された時には革新的なものであったのであるから、過去に漱石が見ていた篆書に比してアンデパンダンであったと考えられる」とも指摘している(16頁)。ある種、中国古代の伝統にさかのぼるという点で、典雅や古雅な趣味と見える装幀であるが、字体の選択そのものには、「アンデパンダン」、すなわち伝統破りの意図が隠されていたとも見ることができるというわけである。
 「石鼓文」そのもの内容はどんなものか。比較的時期の新しい啓蒙的な文献によって紹介しておこう。江村治樹「石鼓文 数奇な運命をたどった最古の石刻文字」(『しにか』2001年3月号)は「唐の貞観年間(六二七〜六四九年)、陝西省鳳翔県南の原野中に十個の太鼓の形をした石、すなわち石鼓が存在することが知られていた。この石には篆書体風の文字が刻まれており、その後、杜甫や韋応物、韓愈などによって詩に詠まれ、広く世に知られるようになった。とくに文字は周の宣王の時の大使籀が書いたものとされ、書法家からも珍重された」と記している(引用者注ールビは省略した。14頁)。年代についても諸説があり、内容は狩猟に関する記述が多いが、その意義についても諸説があるという。
 さて、ようやく祖父江氏のエッセイにもどるが、氏は、エッセイを閉じるにあたって、「漱石は、本になって流通するところまでの構造全体のデザインを行ったんだという気がします。表記も流通も曖昧なこの作品、なんだか単行本が、そのまんま小説みたいな感じです」と書いている(29頁)。いやいや、よくぞ言ってくれたという共感を禁じえない。テキスト中心の文学研究者には、言えないことだ。
 外側の世界のほうから自らの文学を見る視線に対する配慮が、典雅と前衛を共存させ、物語の意味を世の中の呼吸にさらそうという開かれた通路を延ばしているのである。また、悲劇に対するディペイズマンの意識もあるのかもしれない。(木股知史)


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