本人証言は信頼できるか ふたたび

 同じ題で過去に記事を書いたので、「ふたたび」とつけたが、話題の中身はすこしずれている。前回は、真実を偽装した虚偽の書物についてのものであった。今回は、文献の意味の読み取りかたに関する問題である。

 いま、近代文学研究の本でとてもよくできた評論研究を読んでいる。たとえば、表現者Aの表現者Bに対する理解は、表現者Bの思想を十分理解していないことが、文献をたくさんあたることによって浮き彫りにされる。
 十分説得的であるが、わたしには、「本人証言は信頼できるか」ということが気になるのだ。

「本人証言」すなわち文献を、字義通りの意味で読み取るだけでは、文献自然主義におちいるのではないかという危惧がある。
 また、「本人証言」すなわち文献のもつ、象徴的、あるいは文脈的意味をどうとるかということも気にかかる。
 ある歴史学者の文章を読んでいて、次のような一節に目がとまった。

私たちはこれまで、本人の意図に即した思想分析を行ってきました。でも、それとは別に、言説の社会的機能を新たに問題にしなければなりません。ある思想や言説が特定の社会関係の中に放り込まれた時、それらは本人の意図とはまったく別の、社会的意味や機能を担うことがあります。
 平雅行「顕密体制論と私」 『史敏』14号、2016年4月

 わたしが気になることは、ここにつくされている。「言説の社会的機能」を考えるということは、フーコーやブルデューを参照することとは別に、文献の意味をとらえる時に、必然的に現れてくる課題である。このことを考慮しないのが、文献自然主義である。
 ただ、文献の相互性から、「本人の意図」とは別の意味が浮かび上がってくることはある。文献参照を徹底すれば、言説の社会的機能を無視するわけにはいかないことが、気づかれることもある。
 わたしは、勉強不足であることは自覚しているが、この問題は、文学研究にとっては、他の学問領域を参照することで解決することはなく、まさに文献学、書誌学の課題なのである。(木股知史)


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