谷沢永一『執筆論 私はこうして本を書いてきた』(2006年、東洋経済新報社)を読んだ。2回目である。
目にとまったのが、「雑本の資料価値について」という一節である。書誌学の術語として「雑本」が認められていないと記したあと、「私が自分勝手に決めこんでいる雑本の定義を要約すれば、今までいかなる書籍目録にも記載されていない分類不可能に属する粗雑な書物、という工合に落ち着く」と述べている。
そのあと、さらに次のように記している。
砕いて言えば、今までいかなる書物にも言及され引用されていない正体不明の本、つまり図書館の蒐書係が見向きもしない本、またほとんどの古本屋が売れる筈もないと踏んでツブシ(紙屑)にするであろう本、まあ大体そういう持て扱いかねて世間から詰らないと蔑まれる印刷物である。
「粗雑」とか「蔑まれる」とか言うけれども、好書家にとっては、見出されたことのない雑本は、魅惑の対象かもしれない。
古書即売会で、明治期の本に限っても、「へえ」と思うような不思議な本にであうことがある。昭和戦前に比べると、明治期の出版市場は小さいが、それでもいろんな本がある。
古本屋さんと話していると耳学問ができるが、それは、当方よりも古本屋さんが多様な出版物を目にし、手にしているからである。
思えば、研究者が手がかりにする文献目録は、2次的な情報である。どんなによくできていても、フィルタリングの結果である。網の外、枠の外の書物。それが雑本ということになるのではないか。
