芥川龍之介に『沼』という小品があり、つぎのようなラストになっている。「おれ」は沼に身を投げる。
おれの丈よりも高い蘆が、その拍子に何かしゃべり立てた。水が呟く。藻が身ぶるひをする。あの蔦葛に掩はれた、枝蛙の鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息を洩らし合つたらしい。おれは石のやうに水底へ沈みながら、数限りもない青い焔が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。
昼か、夜か、それもおれにはわからない。
おれの死骸は沼の底の滑な泥に横はつてゐる。死骸の周囲にはどこを見ても、まつ青な水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはり俺の迷だつたのであらうか。事によるとInvitation au Voyageの曲も、この沼の精が悪戯に、おれの耳を欺してゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い茎が一すぢ、おれの死骸の口の中から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと届いたと思ふと、忽ち白い睡蓮の花が、丈の高い蘆に囲まれた、藻の匂のする沼の中に、的皪と鮮なつぼみ莟を破つた。
これがおれの憧れてゐた、不思議な世界だつたのだな。―――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮の花を何時までもぢつと仰ぎ見てゐた。
「沼」の初出は。1920年4月の『改造』であるが、執筆は1918年3月といわれている。Invitation au Voyageというのは、ボードレールの詩「旅への誘い」をもとに作曲されたアンリ・デュパルクの歌曲のことである。「旅への誘い」では、「かしこには、ただ序次(ととのひ)と 美と、/栄耀(えいえう)と 静寂(しじま)と 快楽(けらく)。」(鈴木信太郎訳)という詩句がリフレーンされる。「不思議な世界」への憧れのため、「おれ」は死に行きつくのだが、自分の死体を客観視していると、意外な変身が用意されていた。
諸注釈が触れているように、『今昔物語集』の巻十九「讃岐国多度郡五位聞法即出語十四」には、悪人が往生して口中から蓮の花が咲くと記されている。
わたしは気になって、そういう画像が当時描かれたのかどうか少し調べたが見つけ出すことはできなかった。
さて、今年の7月、仕事関連で、京都国際マンガミュージアムを訪ねたのだが、おりよく、山岸凉子展が開かれていた。原画の美しさは群を抜いていて、山岸氏の画力の高さに感心した。なかに目を引く一枚があって、女性の口中から蓮の花が伸びて咲いている図である。絵には解説がなく、一階の関連グッズ、書籍売り場で作品集をていねいに見たが、その絵が出てくる作品は見出すことができなかった。
最近、メディアファクトリー文庫の、山岸凉子の『ゆうれい談』(2002年)の表紙がやはり口中から蓮の花のモティーフであることに偶然気がついた。『ゆうれい談』は、作者自身や知人などがであった怪奇な体験をマンガにしたものである。
表紙画は、「蓮の糸」という章の扉絵である。作品のなかには、口中から蓮の花というモティーフの説明にあたることがらはでてこない。ただ、知人の亡くなった漫画家が仏の姿で訪ねてくる話は、〈往生〉を意識したものであるかもしれない。
たぶん、山岸氏の表紙画は『今昔物語集』の話をもとにしているのだと思う。ただ、水泡が描かれていて水中であることを示しているので、芥川の『沼』も念頭にあったのだろうか。山岸凉子展で展示されていた絵は、『ゆうれい談』の表紙とやや異なったようにも思うが、図録がないので確かめることができない。
しかし、山岸氏の絵を見てから、芥川の『沼』のねじれがよく見えるようになった。西欧世紀末の屈折した美学、すなわち、理想世界を夢みて死につかまってしまうという幻滅と絶望が、口中から咲き出る睡蓮という仏教的イメージによって救済されているというねじれである。
このところ、一つのイメージから文学をたどり直すという試みを細々と続けているが、イメージの時間飛躍という問題がとてもおもしろいと感じている。(木股知史)
