さて、小報告のためいろいろ調べていると、いろいろ分かってくる。
一條成美は、『明星』が四六倍判の雑誌形式になった第6号(明治33年9月)の表紙をデザインしている。例の百合の花を嗅ぐヌードの女性像である。この号には挿絵は《牛》という写実的な作品が載るばかりだが、次の7号には多くの少女像が掲載される。
『明星』を離れた一條成美は、『新声』で活躍する。
この間の事情について、『新声』を発行し、のち新潮社を興した佐藤義亮の回想記『出版おもいで話』には次のような記述がある。(引用は、ペンクラブの電子図書館版によった。活字版としては、『出版巨人創業物語』2005年12月、書肆心水、所収のものがある。初出は『新潮社四十年』昭和11年、新潮社非売品、である。)
百穂氏と共に逸してならぬのは、一条成美という名である。成美氏は三十二、三年ころ、ふいと信州から飛び出して来て、丁度その時分出はじめた『明星』の挿画をかいた。それが洋式の手法で繊い線を巧みに使ったところが目新しく、版画界に一時期を画したと言われた。何かの事情で『明星』を出ることになったのを、新声社で同人として迎えた。はじめて『新声』に書いたのが、三十四年一月号の「乳搾りの少女」というのだったが、大へんな評判で、たしかにその号の売行きがよかった。たった一枚の挿絵で、雑誌の売行きが違ったなどは、そう聞ける話でない。一条氏が独自の画境をつくって、ジャーナリズムの波に乗った点で後の竹久夢二氏を想わしめるものがあるが、惜しいことに、名声が高まるとだらしのない遊びをはじめ、家に居っても朝から一日酒を呑み通して、容易に筆をとらない。遂にひどく窮してあっけなく死んでしまった。『新粧』という画集はこの人の寂しいかたみである。
『新派彩画法』という石版色刷について、重ね刷りの各段階の版を提示してみせた薄い画集は確かに刊行されている。だが、『新粧』という画集はほんとうに刊行されたのだろうか。
『新潮社100年図書総目録』の年表では、1901年12月の項に、『新派彩画法』と『新粧』が並んで記されている。『新粧』については、(画集)とあるだけで、刊行月も頁数も価格も記述がない。複刻版『新声』を調べると、一度だけ広告が掲載されている。その広告には内容の細かい解説はついていない。
一條成美のタッチは、佐藤の指摘のとおり、類例のないもので、人気があったので、ほんとうに『新粧』が出たならば、どこかにもっと明確な反響が残っていてもいいと思うが、その痕跡がない。「かたみ」だというなら、一條の没年は明治43年であり、『新声』の発行所が隆文館に移ってからも挿絵は寄稿していて、いつごろから窮迫したのかがわかりにくい。
年表によると、明治34年度の挿絵部の主任は、平福百穂と一條成美であるとされている。
『新声』の第7年(明治35年)の表紙は、今のものだとしても十分通じるのではないか。翌36年の平福百穂の梅をモチーフとした表紙と比べると、その趣味の懸隔に驚くほかはない。
一條の表紙の様式は、アルフォンス・ミュシャにならっていることは、髪の毛の表現やドレスの線描で明らかである。1911年のミュシャの《ヒヤシンス姫》という作品に花冠のモチーフが似ている。『新声』(36年8月)に《ヒヤシンス姫》と同趣向のらしい頭部のカット《花冠》が出ているので、ミュシャは1911年以前に同じモチーフを制作していた可能性がある。
ミュシャを踏まえているのは明らかだが、ミュシャにすべてを帰属させることができない独自性がある。わたしは、サーベルから『ゲーム・オブ・スローンズ』のアリア・スタークを想起したし、また、剣と本から『ファイアーエンブレム覚醒』のルフレではないかとも思った。
なんといっても、この甘やかな表情は、ミュシャにはないのではないか。
新声社は、明治36年9月に消滅し、37年5月に新たに新潮社が設立され、『新潮』が発行される。
山崎安雄『日本雑誌物語』(昭和34年7月、アジア出版社)によると、「明治三十四、五年には発行部数一万を算し、純文学雑誌としては空前絶後のことであった」が、地方の取次店に出版物を送ったものの、回収が焦げ付いたことが、『新声』を正岡芸陽にゆずるきっかけであったという。
100年史の年表に、明治35年以降、一條の名前は登場しないので、新潮社との縁は切れたのではないかとも思われる。
〔付記、2019年6月20日〕画集『新粧』については、刊行後の広告と見られるチラシが発見された。刊行された可能性が出てきた。記事《一條成美に光があたる》参照。
