一條成美について再考するために、雑誌『新声』を少し買い集めてみた。『新声』と『明星』については、拙著『画文共鳴 『みだれ髪』から『月に吠える』へ』(2008年、岩波書店)で、新派和歌の主導権をめぐる覇権争いが背景にあることを指摘した。
一條の『明星』離脱は、裸体画の発売禁止や、『文壇照魔鏡』による鉄幹攻撃などがからんでいることも知られている。
一條の描いた『新声』の表紙は、清新である。
『明星』の美術重視については、フランスの『ラ・プリュム』が手本になっていることも指摘した。
一條を迎えた『新声』は、『明星』に対して美術重視の方針を掲げるが誌面の実態は予告どおりにはいかなかった。『明星』は、様々な印刷手法を模索して、明治37年1月の号では、『みだれ髪』歌かるたの多色石版を掲載するとともに、色刷り木版も多く載せた。同時期に、多色石版を多用したのは、博文館の『日露戦争写真画報』であり、多くの画家の戦争画が口絵として掲げられた。
『新声』の広告(複数回掲載されているが、引用は明治34年3月刊『恋愛と文学』の巻末広告による)では、「新声は文学美術両界に亘る大雑誌なり」とうたっているが、『明星』明治33年9月の『明星』6号の掲げた「新詩社清規」の一項には「文学美術」の重視が盛り込まれているので、その影響を受けているといってよいだろう。
『新声』の広告に戻ると、本年(34年か)よりは、「美術的趣味を鼓吹せんが為め、一條成美、平福百穂、其他新派画家の筆になれる絵画を毎月十数面を掲げ、且泰西の又は我古代の絵画を写真銅版に製して出し、間々文士の肖像を載す。」と宣言している。『明星』は、色彩図版の掲載に進んでいくが、『新声』は、モノクロ図版の掲載にとどまった。
文学雑誌の誌面の変化は、明治33年から34年にかけておきている。
次の図版は、明治30年5月の『新声』(2巻5号)である。文字が中心で、図版は小さなタイトルプレートが一つだけ掲載されている。
次の図版は明治34年7月の『新声』(6巻1号)で、一條成美が描いている。石版印刷だと思われる。4年間における印刷の変化が見てとれる。同じ号の広告プレートも載せておこう。
さて、ずっと気にかかっているのは、一條成美の描く少女像のタッチの起源がどこにあるかわかないということである。言い換えれば、一條のタッチはそれほど独自なものを感じさせるということである。
一條成美が亡くなる1910年にはコマ絵のスターになっていた竹久夢二のタッチは、わかりやすく、伝統的な略画の線を踏まえているように思われる。大きな変化は、女性の目の表現であり、「の」の字を反転させて、空白を塗りつぶすようなつぶらな瞳の表現は夢二式と呼ばれたのであった。
かつて、子どもの目の表現が女性表現に応用されたのではないかという推測を述べたことがある。*《くりくり目玉はどこから来たか?》
目をのぞいては、身体の線描なども、伝統的な略画が起源ではないかと思われる。
そういう観点で、あらためて一條が描く少女像を見ると、起源を求められない新しさがあるのである。
額から鼻梁を経てあごにいたる線を見ていると、こんな連想がわいてくる。この線に似ているのは、たとえば、手塚治虫が描く美女キャラの線なのである。
それが何を意味するのかを言い当てることはできない。しかし、興味深い暗合だとはおもうのである。(木股知史)
