小鳥のよう

 漱石の『永日小品』に「心」という一編がある。前半と後半がきれいにV字形に折り曲げられたような構成である。
 前半では、小鳥が語り手の掌に載ってくる。後半では、語り手の望みどおりに作られた顔の女の後を、前半の鳥のような気持ちとなってついていく。
 随筆『文鳥』では、鈴木三重吉に贈られた文鳥の首をかしげる仕草から、ある女性のことを思い出す。帯揚げをその女性の首筋にたらすいたずらは、ちょっとエロティックである。

 ところで、小鳥と女性は愛玩や保護という連想ですぐ結びつくはずだが、それがわからないという若い人もいる。小鳥を飼うことも少なくなり、可憐なしぐさの比喩も使わなくなったからだろうか。

 コーパスを引いてみると、「「ちょっと面白いことに気づいたしね」「面白いこと?」彼女は小鳥のように首を傾げた。「ここにいる人間には、二種類しかないって 」という加納朋子「掌の中の小鳥」の用例や、「軽い衣裳を彼女に着けさせ、所謂紅巾の沓を穿かせて、可愛い小鳥のように仕立てゝ、楽しい隠れ家を求むべく汽車に載せて連れて行く」という。谷崎潤一郎「金色の死」の用例が見つかる。

 必要があって、新潮文庫版『痴人の愛』を読んでいると、「小鳥を飼うような気持」でナオミをひきとるという記述がある。愛玩と保護の両方が含まれているのだろう。
 若い人が、小鳥と女性の相関に無感覚であるということは、もしかしたら、悪くないことなのかもしれないと、ふと思う。

 もう一つ、小川洋子の『不時着する流星たち』(2017年、角川書店)に収められている「さあ、いい子だ、おいで」は、漱石の「文鳥」と小品「心」の本歌取りのような作品で、子どものない夫婦が文鳥を飼う話である。「愛玩」の危険がテーマになっていて、はっとさせるところがある。