志賀直哉『焚火』を朗読したこと

 6月に、志賀直哉の『焚火』を朗読する機会があった。朗読といっても素人の技なので、つまることも多々あった。
 『焚火』は、何度も読んでいるが、前回読んだときは、少し長いかな、と思った。
 しかし、今回朗読して、やはりいいと思った。
 『焚火』については論を書いたことがある。
 「志賀直哉と〈文〉の領域」という論で 上田博編『明治文芸館Ⅴ 明治から大正へ』(2005年、嵯峨野書院) に収められている。『焚火』はイメージとプロットの二つの山場が設定されている楕円のような小説である。写生文と西欧的な小説の二重性を体現しているのが『焚火』だと考えた。

 赤城山での友人との散策、目撃される焚火は、実際と映像の二重になっている。ラストでは、焚火をしてまだ火が残る木を、投擲する。実際と映像の木が火の粉を散らしながら弧を描いて、湖面で一つになり消える。
 この場面はぜひ映像化したいと考えたことがある。*過去記事《映像にしたい場面》。イメージの山場は、この焚火の木が投擲されるところ。プロットの山場は、Kさん(モデルは、猪谷旅館の主、猪谷六合雄)が遭難しかけたときに、母が感応して迎えを出したというエピソードである。

 朗読して思ったのは、やはりよくできているということ。比喩は少ないが、時折はっとするような使い方がされている。
 例えば次のような所。
静かな晩だ。西の空には未だ夕映えの残りが僅に残っていた。が、四方の山々は蠑螈(引用者注−「いもり」のルビ)の背のように黒かった。
 イモリはアカハラともいわれ、腹は赤く、背は黒褐色である。
 時間の経過によって、夕暮れが闇に侵食されていく過程がよくわかる比喩になっている。
 また、山を知り尽くしているKさんは、お尻が光る尺取り虫を苦手にしているが、イモリはそこに向かうときのグロテスクの合図でもある。
 尺取り虫を恐れるKさんから山の「不思議」に話が及び、そこからKさんの遭難の話につながる。

 その遭難の話は「こういう話だ」と語り出されるが、三人称の物語体になっている。ここは微妙な切り替えだが、重要な意味を持っている。これまでのように語り手から見たKさんではなく、不思議を体験したKさんを客観的にとらえるという語り方になっている。
 そしてエピソードの終わりで、母のふるまいについて話すKさんの言葉になるとき元に戻るようになっている。
 緩徐調の中に、緊張が取り込まれている。それがまた自然に緩徐調に戻っていく。

 よく知られているように、芥川は谷崎との「小説の筋」論争で、詩に近い小説の事例として『焚火』をあげている。
 わたしの考えでは、『焚火』は、プロットの構築の意志を示しながらそれを否定している。
 芥川はもう一つ、ルナールの『フィリップ一家の家風』をあげている。
 これは百年文庫(ポプラ社)に収録されているようなので、読んでみたいと思う。