漱石の『三四郎』に出てくる「高等モデル」と「元禄」という語の注釈ノートを作成した。次号の『論究日本文学』に掲載予定である。
書いてから、いろいろ考えたことについて記しておきたい。研究のバックヤードについて示したいという動機もある。
「高等モデル」は、美禰子が口にする言葉。「元禄」は、画家原口の画室にある着物、「元禄」の「小袖」のこと。
ともに、三四郎が湯屋で目撃する「三越」の看板に関連する。
すなわち、三越の広告戦略という文化的コンテクストに関連している。同時にコード解釈の更新や変化とも関連している。
わたしが注釈の基本と考えているのは、テクストが創出された時点と、そのテクストが存在し続けている現在という双極を視野に含めるということである。この着想は、テッド・ネルソンのハイパーテクストという概念から得ている。
ネルソンはすべての文書がリンクしていて、自由に参照できる「ザナドゥ」というハイパーテクストのシステムを構築しようとしていた。その概要は『リテラリーマシン』(1994年、アスキー)に記されている。
ネルソンは、技術的なシステムの構築について書いているのだが、テクストという概念の更新を促すような刺激に満ちている。ジョージ・P・ランドウの『ハイパーテクスト』(1996年、ジャストシステム)という本に、そのことが詳しく書かれている。
創出された時点のオリジナルテクストと、解釈やコードとの相互関連など、さまざまに変容する現在のハイパーテクストという2つの極を念頭に置いて、注釈作業は進められるべきだと、わたしは考えたのである。
以前作った図があるので、公開する。
もう少し3Dを意識して、奥行きのある図に改訂したいが、テクストの双極を示そうとしたものだ。
ネルソンの図のセンスのおもしろさには遠く及ばないが、テクストは存在し続けているし、振動し続けている、ということを言いたいのだ。
「ハイパーテクストと文学研究」という論文に大要は記した。J-STAGEで読める。ここ。
記号の消費という事態は、資本主義に随伴する現象である。ゾンバルトや、ヴェブレン、バルトらは、そうした記号の消費という事態を、それぞれ解明しようとしたわけだ。
三四郞が三越の看板の女性像から美禰子を想起する場面は、次のような文脈関連性を浮かび上がらせる。
三四郎は、三越の看板の女性像を見て、美禰子を想起する。→広告の女性像と、美禰子が関連づけられる。→美禰子が記号的消費の対象となることのシミュレーションが露呈する。→これは三越の広告戦略に見られるライフスタイルの消費というテクスト外部の文化的コンテクストに関連する。
上記の文脈関連性は、原口が描く、美禰子をモデルにした絵画《森の女》にも波及する。すなわち、芸術としての絵画は、絵看板の広告に転化する可能性を内包していることになる。
作者漱石が、記号の消費についてまったく意識していないとしても、小説の言語を創作する過程で、社会的、文化的コードとの接触、対話、葛藤が生じる可能性がある。
ジョージ・P・ランドウは、『ハイパーテクスト』で、作者をテクストとして理解するという視点を提示している。
ただ、作者の創作過程の問題は残されている。三浦つとむの対象→認識→表現の3段階による過程的理解を創作過程に援用すれば、できる限り言語学的に創作のプロセスを復元することは可能ではないだろうか。
ネルソンの「ストラクタングル」という概念は、創作過程を考える際に重要である。ストラクタングルは、「絡まり構造」、「乱構造」とでも訳せばよいだろうか。
いうところの意味は、一つのテクストは様々な他のテクストとの相互関連性の中で絡まりあいつつ生成していくということだ。
注釈は、この過程を復元する。作者の創作過程で、もっとも重要なのは、社会的、文化的コードとの接触がいかになされるかということである。秩序への抵抗、規範への違反という側面ではなく、規範(コード)との対話という側面が創作過程では重要ではないかと、わたしは考えている。
ここのところはバフチンや、昨今のナラトロジーの進展を勉強して、もう少し考えたい。
「第三項」理論は、わたしには、三好行雄の作品論とほぼ同じに見える。
テクストは振動する。〈原文〉は振動するのである。真の「アナーキー」を恐れるな、と言いたい。
