芥川龍之介『手巾』について

 かつて「女とハンケチ」という論を書いた(ここ)。
 このところ、ナラトロジーの再勉強で気づいたことがあるのでそのことを書いておこう。研究史をサーベイしていないので、同じ指摘がすでにされている場合はご海容をお願いする。

 法科大学教授長谷川謹造先生のところに西山篤子という女性の来訪がある。先生は婦人を卓と椅子のある応接室に案内し,紅茶茶椀に入れた冷茶を出す。婦人は、かねて療養中の息子憲一郎の死を先生に伝える。西山憲一郎は学生で先生のところによく出入りしていた。西山篤子の口角には微笑みさえ浮かんでいるが、取り落とした朝鮮団扇を拾おうとして、先生は婦人の手元を見て,手が激しくふるえハンカチを裂かんばかりに握っているのに気がつく。
 長谷川先生は、婦人の振る舞いを「女の武士道」として称揚し,アメリカ人の妻に伝えるが、読みさしのストリンドベルクの『ドラマトゥルギー』に目を落とすと、ハイベルク夫人の演技についての「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。」という一節があり、先生は「武士道と、さうしてその型(マニイル)」をめぐる懐疑に導かれてしまう。

 「女とハンケチ」で書いたのは,主に2点。一つは、「型」にとらわれているのは長谷川先生自身だということ。
婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔な口髭にとどかない中に、婦人の語は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、「そりやあ」と云つた。
 青年の死を告げられたら、率直に驚くというのが、ふつうの振る舞いだが、先生は紅茶茶碗の処理という「型」にこだわっている。
 もう一つは西山篤子の振る舞いの分裂は、作為としての演技ではなく、洋風の応接室という文化の混合からやってきたものだということである。

 付け加えることはないが、この小説の語り手は、「先生の専門は、植民政策の研究である。従つて読者には、先生がドラマトウルギイを読んでゐると云ふ事が、聊、唐突の感を与へるかも知れない。」というように、「読者」に呼びかけている。無色透明の語り手ではない。
 長谷川先生の身に起こったエピソードを語り手は読者に伝えている。黒子的な語り手ならば、独自の判断を有しているとは考えにくい。しかし、『手巾』の語り手は、ウェイン・C・ブースのいう「示すことだけでなく語ることを許された語り手」である(ブース『フィクションの修辞学』p202)。

 長谷川先生が事態を誤認していることを語り手は認識しているとすれば、結末の二重性がうまく理解できるのではないだろうか。あるいは、事態についての判断が,登場人物の長谷川先生と、語り手では食い違っている可能性があるということを示している、といってもよいだろう。

 長谷川先生は振る舞いの型にこだわる人であるが、武士道は精神性の表現だと考えている。アメリカ人の夫人の東洋趣味にあわせている長谷川先生には、文化の混合が振る舞いの分裂をもたらすことに無頓着である。

 したがって、西山篤子の振る舞いにいったんは感銘を受けて「女の武士道」と評価しながら、ストリンドベルクの著作に出てくるハイベルク夫人の二重の演技がきっかけになって懐疑が生まれる。
 ハイベルク夫人の演技は、なんだか笑いながら怒る竹中直人のようだが、卓という仕切りは存在していない。卓という仕切りで、遮蔽された西山篤子の手元がふるえるのは、演技ではあり得ないことを、長谷川先生は見誤る。

 また、自分がたとえた武士道にも懐疑がおよぶが、もともと,武士道であれ何であれ、文化的コードに関わるものは、すべて型に関連するという視点を長谷川先生は持ち得ない。

 語ることを許された語り手は長谷川先生の判断についての批評を多くは語らないのだが、沈黙のうちに長谷川先生の誤認を浮かび上がらせるという機能を担っているのではないだろうか。 
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〈付記〉芥川が語りを工夫した,という言い方ではなく、芥川が採用した、内面を保持している可能性がある語り手という設定が、多義性を生み出している,という言い方がいいように思う。
 配信で見たのだが、『相棒』シーズン16に「手巾」という回があり、芥川の『手巾』がモチーフとして使われている。なかなかおもしろい脚本だった。「はい?」。