太田三郎のこと

太田三郎の経歴については、東文研のサイトに『日本美術年鑑』昭和45年版(70-71頁)からの引用が載っている。

要点を引用しながら経歴をたどってみよう。

生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。

洋画と日本画の両方を学び、両方を制作したということが太田三郎の特徴である。

洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。

《カフェの女》は、油彩画で、椅子にかけた女が卓に寄りかかっているのを横から描いている。同じモチーフの木版画があり、正面から描いている。木版画の方でわたしは太田の名を記憶した。
もう一つの特徴は、挿絵、コマ絵を多く描いているということである。

挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。

『明治大正文学美術人名辞書』(昭和10年11月、立川文明堂)では「太田沙夢楼(オオタサムロウ」で立項されており、「「葉がき文学」の編輯により、挿絵画家として名を知られ」とある。
『スケッチ画集』はこの時の成果であるが、どのような活動をしていたのかについての研究はないのではないか。
挿絵については、鈴木裕人「「浅草紅団」太田三郎の挿絵」(2016年3月、「愛知淑徳大学国語国文」 39号)という論がある。

沙夢楼画集』(非売品、大正5年、三郎画会)から、写真を引用しておこう。30代であろう。

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〔付記、2021/03/14 13:16〕
作品を一つ紹介。《白銀の響》。印刷はコロタイプか。
トリミングあり。

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〔付記、2021/04/02〕
「ハガキ文学」についてのよい研究が見つかった。

「主筆の大田南岳,助手の太田三郎」とあり、創刊の背景も詳しく記述されている。

〔付記、2022/01/27〕
誤認を訂正。
〔付記、2022・1・30〕
第7回文展での三等賞受賞作《カツフエの女》を油彩画としたのは、『近代日本美術事典』(1989年9月28日、講談社)の「太田三郎」の項の記述に従ったためである。図版も小さいが掲載されている。しかし、木版画の方が受賞している可能性もあるので、しばらく要検討事項としておきたい。
〔付記、2022・2・4〕
木版画《カフェーの女》は大正3年作なので、文展受賞作は油彩画である。絵葉書を入手したので、別記事で紹介する。