日記 批評は見立て狂いなのか、など

調子のよいときは眠前に少し読書をするとスムースにねむりにはいれる。いまは不眠気味で寝床に本を近づけないようにしている。

前に、読んでいたのは橋川文三。『日本浪曼派批判序説』と『昭和維新試論』。後者は、資料を集め切れていないとか正直に書いている。いまなら、そんなことを書けば査読でリジェクトされるだろう。

いま思うのは、橋川文三の文体は、理想の批評の文体だということである。思索しつつ言葉を綴るという文体である。制度的学問として不十分だと否定されても、橋川文三の文体は批評として意味がある。

いつしか、花田清輝あたりを発生源とするのか、見立て狂い(草森紳一の書名から借用)が批評の本流のように考えられるようになった。こうしたやり方の特徴は、象徴的読解の範囲が無限に拡大されるところにある。こうした文芸批評しぐさというものが、ある方面では猖獗ををきわめている。

思索する文章がかけないとしても、淡淡と思索を伝える文章は書きたいと私は思っている。

最近、感心した文章を紹介しておこう。

ネット上でちょっとしたやりとりがあって、その方がどんな研究をされているか調べていていきあたった、《ライブラリー・ラビリンス》というサイトにある「ある女性と自由」、「平成の思い出ー恋と嘲笑」という、木下知威氏の2編の文章である。

2編の趣はそれぞれ違うが、経験を思索でたどり直すという意味で共通点がある。

経験を思索によってたどり直し、一種の指向変容が生じる。そこに解放感を感じることができた。