そこは格調高い古書店で、価格も高かった。
持ち合わせで購入できたのが、新村出『南蛮更紗』(大正13年12月3日初版、改造社、架蔵しているのは、大正11年4月1日の11版)である。いまは、東洋文庫に入っている。
更紗を模した布装の表紙が美しく、箱もしっかりしていた。この時は、著者については『広辞苑』の人というくらいの認識しかなかった。
箱の文字でわかるように、装幀は恩地孝四郎である。(雪岱文字といって、小村雪岱の文字については真田幸治氏が研究しているが恩地文字ということはできるだろうか。)
中に「北原白秋の『思ひ出』」という一編がある。
冒頭はこんな感じ。
藝文の編輯會が濟んだ後の楕圓形の卓を圍んでTONKOの五人。Tはパナマを少し阿彌陀にかぶつたまゝ新着のタイムス週刊を讀んで何か論じたげな顔をして居る。Kの前には國學叢刊といふ唐本の雑誌が開いてあつて、殷の時分に亀の甲に彫付けたとかいふ文字の摺物の所が出て居る、Kは對ひの第一のOさんを相手に今の詩に律があるとか無いとか論じ始める、第一のOさんは手に小本の詩集をもつてはぐつてる。卓上には布呂敷包、マイヤー、センチユリー、其間には煙草の吸ひがらが一杯になりかけた壺。新刊のアール、エ、デコラシヨンの下になつたマッチを取つて、第二のOは、残り少なの芙蓉に火をつける。見ればフイシアンの近世畫五十年史を讀んでるんだ。
『藝文』は京都帝国大学の雑誌(上田敏が編輯したものとは別)であり、京都大学の少壮教授たちの集まりであろうか。『美意延年 新村出追悼文集』(昭和56年7月20日、新村出遺著刊行会)の年譜によると、明治42年5月、京都帝大教授に昇任している(明治39年1月に助教授として東京帝大より転任)。なおこの追悼文集によって、新村の大きさを理解した。
続いて、第一のO氏が持っている小型の詩集に話題が移る。
T君は、「ワグネルの自叙傳が 原書は二十五マーク、英譯が 三十シリングか――」と云ひながら、タイムス の文學附錄を週刊と一しょに巻収めて、『何だ其小さな本は?』第一のOから詩集を受取つて、卵色の地に書名を赤で染拔いたさつぱりとした上被ひの紙をめくつて、ダイヤ女王のカルタを色どつた表紙の装幀を一目して「ははあ、大分新工夫だな、何、O-M-O-I-D-E」と、けげんな顔をして中の挿畫や欄畫や寫眞版をはぐり\/(引用者注ー「く」の字型の繰り返し符号) 『大分ローマ字入つてゐるな······ははア司馬江漢の銅版畫か。」······第一のOさんは詩集を取戻して、「この人の詩は中々佳い、ほんとの詩人らしい所があるよ、足くび(引用者注ー○の傍点あり)といふ題で、
ふらふらと酒に酔ってさ、
人形屋の路次を通れば
小さな足くびが百あまり、
薄桃いろにふくれてね、
可哀相に蹠(引用者注ー「あしのうら」のルビあり)には日があたる。
馬みちの昼の明るさよ。
浅草の馬道
松の葉ぶりの調子もあってね」
第一のO氏は「みなし児」も引いて、「「いや中々エキゾーチックで面白いのは隣の屋根······見果てぬ夢······何しろ日本にもこんな詩人が出る様になつたんだからね」と悦に入る。」。
白服の給仕が持つて來た茶をKは汲んで配けた後、詩集をOから取って見る。ワットーの畫いたあれに似たピエローの思出(引用者注ー「ピエローの思出」に○の傍点あり)の畫を隣の坐の第二のOに一寸見せてそれからわが生ひたち(引用者注ー「わが生ひたち」に○の傍点あり)の中を拾讀みし始めた。「日本でない樣な情趣でうれしいね」とNは更に末の方をはぐつて酒の黴(引用者注ー「酒の黴」に○の傍点あり)を讀んみる。「借りて歸つてゆつくり讀まう」とKは立上つた。紹介者の第一のOは風呂敷包に手をかけた。Tは阿彌陀のパナマを眞直にかぶり直してタイムス握つて立つた國學叢刊の持主名フイシアンの讀者も等しく卓を離れた。外は入梅中ながら薄日がさす、室の窓前には淡紅色の躑躅が咲いてる、廊下も二階もしんとしてゐる眞晝時。(TONKO JOHN)
ワトーの《ピエロ》に比較しているのは、『思ひ出』の口絵である。
*近代文学館版の復刻による。
末尾の「TONKO JOHN」は、もちろん「TONKA JOHN」をもじったものである。また、しんとして、躑躅が咲く「真昼時」というのも白秋を意識しているだろう。5人のペダンティックな様子も。
『思ひ出』の刊行は明治44年6月、この時、新村は36歳。新村の「S」がでてこないので、この文は創作なのか? あるいは、書き手として、5人を見ていたのか。
本は風呂敷に包んで持ち歩いている。このカフェはどこか。
「藝文」の総目次はあるのだろうか。なければだれかつくってほしい。
〔付記、2021/03/26〕
🔶カフェと書いたが、進々堂の開店は1913年で、この当時はまだ存在していない。斎藤光『幻の「カフェー」時代』によると、京大、三高などが集中していた吉田あたりでは、1910年にカフェーが話題になっても、ミルクホールしかなかったとある(p32ー44)。1911年にはどうだったのだろう。
「廊下も二階も」とあるので、会合が行われたのは京都帝大構内の会議室で、大学内で給仕を雇用していたというのが妥当な理解だろう。
🔶日本国語大辞典にも採語されていない「欄画」という語が使われている。『思ひ出』の場合は、中扉のカット画を指している。挿絵の「目次」があり、「欄画」と記されている。
欄画については過去記事《欄画》参照。
