印刷への関心はどう生まれたか 『本邦オフセット印刷の開拓者 中西虎之助 日本平版印刷発達史』を読む 2

中西虎之助は1866年6月3日生まれ。維新の激流渦巻く京都に生まれる。

虎之助は上京の竹間小学校に明治7年以後に入学。当時は飛び級があり、成績優秀の中西は4年かかるところを2年半で下等小学校を卒業、試験を受けて助教(代用教員)となった。上等小学校に進学ができなかった事情も推察できるという(19頁)。

学者を目指していた虎之助は教師講所に通い教師を目指した。

虎之助が印刷への関心を抱いたのは切手や切符であったという。

 中西虎之助も、もちろん、郵便の便利、また汽車の速力にも少年らしい感受性をもって讃嘆を惜しまなかった。
 しかし、虎之助がそれよりも興味をもったのは郵便の切手であった。また汽車の切符であった。それらは、ことごとく印刷物であった。しかも従来の木版の印刷物ではなく、郵便切手は銅版印刷であり、汽車の切手は活版印刷であった。
 彼はこのころから次第に印刷ということに興味を持ちはじめたのである。

明治政府の布告は木版ではなく印刷物であった。

明治7年9月には、本木昌造の門下生古川種次郎、山鹿粂次郎が三条柳馬場東入る北側に点林堂印刷所を興した。点林堂は本木の雅号。

布告、切手、切符以外に中西はどのように印刷物に触れたのか。意外なことに絵草紙屋の店頭で売られていた銅版画であった。石版画も扱われはじめていた。

「それらはいずれも従来の錦絵などより美しかった。いな絢爛という点では錦絵はすぐれていたけれど、銅版画や、石版画には従来の錦絵などに見られない迫真力があった。」(33頁)。

少年虎之助の目には銅版画、石版画の「迫真力」、リアリティが魅力として捉えられたのである。

印刷における、美とリアリティの相克という問題が、絵草紙屋の店頭で展開されていたのである。

あるとき、虎之助は寺町通りの土産物屋で紳士と束髪を結った令嬢を目撃する。令嬢は銅版の京都名所図会を買い求めようとしていた。

 画題は珍しくもない、知恩院境内の雪景色であるが、写真で見るように如実に描かれているのが虎之助の関心を捉えた。その楼閣といゝ、雪を冠った境内の樹木のたずまいといい、錦絵のように様式化されておらず、また錦絵の常套手段である遠景を霞でごまかすようなことをせず、細部にいたるまで実に緻密に描かれている。上に「華頂山知恩院雪中の図」と画題を記して、春燈齋画と落款がしてある。これが銅版画というものであることは、虎之助もすでに知ってはいたが、和製の印刷物でこのように細密な風景画を見るのははじめてであった。その隣にあるのは、画題は「江戸吉原之景」とあってこれは彩色刷りである。
 この画題も従来から錦絵として、浮世絵画家によってしばく採り上げられた画題ではあるが、その迫真力は到底従来の錦絵の及ぶところではない。これは署名は遠山春泉堂図とある。虎之助はツカツカと店内にはいるとその二枚の銅版画を買求めた。
虎之助は、帰宅すると、母が東京土産にもらった二代広重の東京名所図会「銀座通りの図」と比較する。

 これは明治十二年の印刷であるが画題は明治十年に完成した銀座通りの洋風建築のある風景で、二頭立ての馬車が走っており、向う鉢巻の車夫の曳く人力車には弁髪の支那人が乗っている。道ゆく人は洋傘をさし、巡査は天坪棒のように長い警棒を小脇きに抱えている。(巡査が帯剣するようになったのは明治十五年〝一八八二〟からである。)印半纏の男が路傍の瓦斯灯に長い棒の先に火のついたので、いまや点火しようとしている。街路樹の桜の木陰の煉瓦建の家に「日就社」という看板が掲げてあって、読売新聞という木札が下っている。
 これはもちろん写生図であろう。しかしながらその手法は、江戸時代の浮世絵の手法を一歩も出ておらず、人物の表情も類型的であり、その彫刻も銅版画のように緻密ではない。

虎之助は悩んだ末、点林堂印刷所の門をたたき、古川種次郎の面接を受けて、工員として働くこととなる。明治13年4月、虎之助は15歳であった。

わたしの現在の視点からは銅版画の精細なリアリズムよりも、錦絵の装飾的美の方が好もしく思える。

しかし、技術近代化の流れの中で、装飾美よりもリアリズムを選ぶ感受性の変革が起こっていたことが虎之助の銅版画への愛着に示されているように思える。