点林堂印刷所 『本邦オフセット印刷の開拓者 中西虎之助 日本平版印刷発達史』を読む 3

『本邦オフセット印刷の開拓者 中西虎之助 日本平版印刷発達史』(昭和31年12月3日、凸版印刷株式会社、編集増尾信之)。企画は伊東亮次、執筆は増尾信之。

口絵写真、中西虎之助。(トリミングあり)。
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虎之助は14歳で、京都の点林堂印刷所に入所。虎之助は銅版印刷を学びたかったが、点林堂は活版印刷の会社で、その点少しあてがはずれた。

点林堂印刷所での労働はなかなかたいへんであった。

 まだ労働基準法などというものなかったころのことであるから労働時間にも制限はない。朝早くから起きて拭掃除をする。
 それが終ると朝食である。それから仕事に取りかるのである。印刷所の小僧の仕事は最初は動力係りである。動力係りといっても、ボタンを押せばたゞちに電力が通じてシリンダーが回転するというのではない。現在の電動力の代用を人間がやるのである。手で「はずみ車」をまわすのであるから、重労働である。よほど壮健な者でもすぐ疲労するから、二人が交代でやるのである。
 それから、紙差し、紙取りをやる。中西虎之助が印刷業の徒弟に住込んだのも、文字を扱うことによって、勉強ができるという理由によったのであるが、彼の希望する文選、植字の方にはなか\/まわしてもらえない。

活版印刷所の労働については、徳永直の『光をかかぐる人々』が詳しく描いている。過去記事《光をかかぐる人々》。

紙差し、紙取りも輪転機によって自動化されるまでは、コツがいる作業であったのではないだろうか。

松方財政によって不況の中、印刷業界は殷賑を極めていた。点林堂の主要顧客は新聞であった。

当時の新聞は木活字印刷がまだ多かった。

「京都新報」については次のように説明されている。

 京都新報は活字は前述のように木活字、用紙は大判の日本紙の片面刷りの一頁新聞であった。
 木活字で印刷するには箱の中に組版を入れクサビで締めて、普通の版木のように版面に刷毛で墨汁を塗り、その上へ紙を載せてバレンで印刷するのである。これは洋式の印刷機が渡来してからでも、木製活字を活版印刷機にかけて洋式印刷インキで西洋紙に刷るようなことは、後年まで行われていた。
「京都新報」が鉛鋳活字印刷を行うのは、明治7年頃からである。

足踏印刷も行われ、虎之助も経験した。

 新聞の印刷法も、足で印刷する場合もあったと当時在留していた外人の書いたものに見える。その方法は組版をゲラ箱に入れたま、活字面へインキを附けてその上へ紙を濡らしたのを載せ、雑巾か厚紙を蔽い、それをやわ\/と足で踏んで印刷するのである。
 しかしこれは校正刷りに用いた程度であったらしい。中西虎之助も見習時代にはこの足踏印刷をよくやらされた。
絵入り新聞の印刷は手間がかかった。

 画入新聞とは挿絵を入れた新聞であるが、現在のように写真版、凸版など如何に緻密な絵画でも一、二時間内に製作し得るのと違って当時の挿絵彫刻は桜の板目に彫刻するのであるから、その彫刻に五日も六日もかることがある。そういうのは一枚の原画を四、五枚に分割して三人、五人の彫工が手分けをして彫刻し、それを後で継ぎ合わせて印刷にまわすのである。
木版がコスト的に生き残ることができなかった理由はその作業時間の長さと彫刻職人の必要性にあった。

自由民権運動によって、新聞、雑誌が盛んとなり、その時期に虎之助は印刷修業をはじめたことになる。