『三田文学』創刊号(1910年5月、三田文学会、籾山書店)。
*グラかけのままですが。
表紙装幀は、藤島武二。この年の1月に、留学から帰還している。なんの花だろうか。
目次は表紙裏に簡潔に記されているのみ。
さて、お目当ての巻頭作品は、森鷗外の『棧橋』。
「棧橋(写生小品)」とある。小説ではないのである。横浜から欧州に旅立つ夫を見送る妻の話。
「写生小品」とはどういうことだろう。
『三田文学』の編輯人永井荷風は、松原至文編の『小品文範』(1909年12月)に寄せた「自由は小品文の生命」という文章で小品は、英語のスケッチにあたるものだとしたあと、次のように記している。
一体スケッチと云ふ語は絵画の方から初まッた言葉で見取図とか、覚え書きと云ふ意味である。無論絵画の方では之れを将来まとまッた創作をする為めの準備、筆ならしにするもので、独立した性質のものではない。ところが文壇に入るに及んで、写生文とか小品文とか云ふ稍独立した地歩を占むるに至ッた。
「スケッチ」(sketch)という語は、「写生」と訳される場合が多い。ただスケッチという語は、荷風が指摘しているように、習作としての未完成品という意味を持っていた。荷風は、小品の西洋の手本として、ワシントン・アービングの『スケッチ・ブック』や、ユイスマンスの『パリの写生』(原題はCroquis parisiens)をあげている。フランス語では、スケッチの語は、クロッキー(croquis)にあたる。
「写生」が「スケッチ」であり、「小品」であるならば、「写生小品」は畳語的表現ということになってしまう。でも、「スケッチ小品」という言い方は成り立つだろう。
『棧橋』には謎があるのだが、それはまた別稿でとりあげることにしたい。
『棧橋』は、行かえしても一字下げていない。荷風の『紅茶の後』は、一字下げている。深川夜烏(井上唖々)の『火吹竹』は下げているところとそうでないところが混在している。鷗外に意図はあったのだろうか。こういう表記の推移を研究している人はいるのだろうか。
書架の広告も紹介しておこう。下の書架付きライティング・デスクは、ちょっといいいかも。
*こういう書架の広告はたくさんあったのだろうか。
『三田文学』は、復刻版もあるし、大学などに属して契約があれば電子版も参照できる。
しかし、図版の裏焼けや、そろっていない裁断面など、オリジナルには、整形された復刻版や、触感を遮断した電子画像にはないさまざまなノイズが含まれている。
それらのノイズに囲まれたテクストを読むのは、読書人の無上の快楽といえるだろう。
今回気がついたのは、三木露風の詩がわるくはないということと、露風に依頼した荷風が『紅茶の後』で、「わが現代の新しい詩人の群は宛ら虱の行列を見る如き『・・・・・・』(引用者注ー「ボツ\/\/」のルビあり)ばかりを沢山に並べ」と批判的に書いていることである。露風の詩にはボツボツボツがたくさん使われているのだった。
〔付記、2021/08/09 13:24〕図版挿入、及び付加。
