田中恭吉は、『月映(つくはえ)』の版画家で、萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の口絵や挿絵の作者でもある。
その田中恭吉の日記を読んでいるが、むかし、下宿の変遷表を作ってもらったことを思い出した。
回覧雑誌『密室』の翻刻をして、解説巻として『回覧雑誌『密室』解説』(2009年3月20日)というものをまとめたのだが、Mさんの発案で下宿変遷表をこしらえたのである。
田中恭吉だけではなく、『密室』の参加者の分もこしらえた。
田中恭吉の分だけを拡大してみる。
美校受験のため上京した田中恭吉は最初、父の友人である中井喜代楠の親戚中井龍の家に世話になっている。
表で「駒込千駄木517」とあるのは誤記で番地は「57」である。
この時は不合格で、いわゆる浪人生活を送ることになり、4月に中井家のすぐ近くの愛静館(駒込千駄木57番地瀬戸正平方)という下宿に移っている。
この最初の下宿を地図で探してみることにしよう。
最初の地図は『東京市内電気鉄道案内』(明治37年12月8日、毎日新聞社)で、6年ほど前のものである。
北は時計でいうと1時の方向である。
上野公園・不忍池、帝大、植物園などの位置が分かるだろう。
千駄木町は右上部に見出される。根津神社の裏手にあたることがわかる。
道二筋おいて、翌年に転居する追分町がある。
次は、『新定市区改正東京市実測全図』(明治40年4月20日、山田熊太郎、法令館)である。
北は時計でいうと2時の方向である。
中央少し左に、根津神社があり、その上部が千駄木町になっている。
前図に比べると、都市化が進んでいることが道の増加によってうかがわれる。
最後は鷗外立案の『東京方眼図』である。引用するのは復刻版(『特選名著復刻全集 東京方眼図』昭和46年7月1日)であるが、初刊(明治42年8月15日,春陽堂)は、明治43年にいちばん近い。
北は時計でいうと11時の方向である。
やはり根津神社のそばにかなり広い駒込千駄木町を見出すことができる。
日暮里村になると田園地帯だったであろうが、駒込は学生街として開けていたことが推察される。
原町洋画研究所があった小石川原町までは、徒歩で15分くらいだろうか。
最後に57番地がどのあたりか確認してみよう。
『江戸から東京へ 明治の東京』(1996年9月20日、人文社)という本があって、『明治四十五年最新番地入東京市全図』(明治四十五年九月二十日第十三版、忠誠堂*正しくは大正元年)が拡大図とともに収められている。
北が上部になるようにして、駒込千駄木町の部分を引用する。
本郷の「郷」の赤字の上に50、54があるので、57番地は四叉路の近くあたりではないだろうか。
下宿の位置をこんなふうにすべて特定していくと面白いが、とりあえず最初の下宿の位置はほぼ分かった。
〔付記、2022/01/01 15:22〕誤記修正。
