三並花弟のこと

田中恭吉と交流があった三並花弟は回覧雑誌『密室』に参加している。エッセイと曲譜を寄稿しているが、絵画作品はない。

三並の絵画は『近代の美術43 フューザン会と草土社』に紹介があったはず。いま本が見つからない。

『回覧雑誌『密室』解説』(2009年3月20日)から、『密室』7号の解説の一節を引いておこう。

三並花弟「この頃の感想」は『白樺』的な自己至上の思想を語っている。「常に己に生きよ。総のモノを愛せ、己を愛する如くに」という一節には、『白樺』からの影響が見られるし、「私は画論を論じたくない」というあたりには、フュウザン会の思想のあらわれを見てとることができるだろう。花弟の父は、三並良といって、松山出身で、正岡子規の「五友」の一人であった。獨協出身で一高や松山高校のドイツ語教師をつとめた。また、内田魯庵は、花弟の母方の伯父であった。花弟は、太平洋画会研究所に学び、一九一二年五月に開催された雑草社同人展覧会に出品し、その後、フューザン会の結成に加わっている。花弟は、「フユウザン会の想出」(一九四〇年一〇月、『造形芸術』)で、フュウザン会結成の前後の時代状況について、「明治末期から大正初期にかけては所謂白樺文学の興隆期で、自然主義への反動として理想主義の擡頭した時期である。平面的なレアリズムに飽足らず何か人格的な発表を期待して、其所に何か哲学的なるものをさへ求め様として居た」と述べている。斎藤与里がフランスから帰国して、一九一〇年九月に、高村光太郎が営む狼玕洞で個展を開いたが、花弟は、「当時新思想運動の黎明期にあつて何か新しい表現を求めて居た若い自分達は、この与里氏の作品を見て其の中に新しい物の見方と手法を見出して感激したものだつた」と回想している。続いて、花弟は、「其所へ舶来の画集や雑誌白樺等からゴッホ、セザンヌ、ゴーガン等々の後期印象派の巨匠達の複製を見、画論を読み、それと自分達の勝手な解釈や各自の個性等の混合によつて夫々の新しい絵を描く様に成つた」と述べている。その後、雑草会という新人画家の会合を作り、その展覧会が三田芝園橋の統一会館で開かれた。その後、斎藤与里より連絡があり、フュウザン会の旗揚げに加わる。フュウザン会は、一九一二年一〇月に第一回展、一九一三年三月に第二回展を開いた後、五月に解散する。花弟は、「岸田、木村君の生活派に対して斎藤其他の芸術家派との不調和が醸し出された」と記している。雑誌『フュウザン』第五号(一九一三年五月)の「編集前後の雑感」では、岸田劉生が、内容に問題があるので、花弟の原稿を掲載しなかったということを書き記している。フュウザン会が解散し、岸田との対立もあって、ちょうど内的世界の探究に舵をきりはじめていた『密室』に、花弟は、親近感を抱いたのだと思われる。
父の三並良(みなみ・はじめ)はウィキペディアに立項されている。岩波版『芥川龍之介全集 第十七巻』(1997年3月10日)の人名解説にも項目がある。一高でドイツ語を教えていたときのことが、井川(恒藤)恭の書簡に出てくるからである。

三並花弟の生没年は未詳である。「フユウザン会の想出」を書いた1940年は存命であった。父の良は1865年生まれであり、1940年に没している。

花弟が属していた雑草会の展覧会が開かれた統一会館とはユニテリアン教会のことだろう。父の良はユニテリアンだったので、そのつてかもしれない。