児島喜久雄の小村雪岱評

児島喜久雄『美術批評と美術問題』(昭和11年12月5日、小山書店)には、「現代挿画家偶評」(初出は『改造』昭和8年10月)という文章が収められている。(この本は国会図書館のデジコレで読める。)

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そのなかで小村雪岱(こむらせったい)の評価がおもしろい。原文の漢字は新字に改めた。

小村君は巧妙な鳥瞰法の応用と現実味を加味した動作の描写によつて春信、湖龍、 文調等の世界を今に活して大に人気を博して居る。人物の表現といひ風物の描写といひ実に手に入つたものである。小村君の描く世界は濃い色彩の世界である。主として柔らかい情味の世界である。然しそれも皆遠く時代をへだてた昔の世界なのだからさういふ世界に精通して居るらしい小村君の表現は十二分に成功して居る。

これは異論のないところだ。
「晴信」は鈴木晴信、「湖龍」は礒田湖龍斎、「文調」は一筆斎文調である。

児島は小村雪岱の苦心にときおよぶ。

唯一つ小村君も苦心して居るだらうと思はれる問題があ る。それは個性の複雑な心理を示す表情の問題である。勿論現代の生活ではないのだからいくら 複雑でも高が知れて居る。然し夫で台小村君の場合には可なり難しい問題になつて来るのである。何故かといへば小村君が挿画の様式として用ひて居る浮世絵の表現には複雑な情緒を描写した例が少いからである。其様式を崩さずに前例のない複雑な心理の描写を加へるのは非常に難しい。

雪岱が学んでいる浮世絵の感情表現には限界がある。なぜなら様式化した表現では複雑な心理をあらわすのが難しいからだと、児島は言う。

小村君は大分苦心して居るらしい。さうして可なり成功して居る。それでも時々変な感を起させる場合があるのは止むを得ないことである。浮世絵の世界は殆んど美男美女のみの世界である。美男美女ばかりならばいつも極りきった殆んど無表情に近い顔を描いて置いても所作に多少の表情を持たせて置けば間に合ふ。然し美男美女の型から外れた人物の表情に至つては先例の暗示が利かないだけに難しい。小村君は表現と様式の間に板挟みになつて居るのである。

児島は「美男美女の型から外れた人物の表情に至つては先例の暗示が利かないだけに難しい」と言っているが、例を探してみよう。

邦枝完二作、小村雪岱画『絵入草紙おせん』(昭和9年1月25日、新小説社)がいいだろう。

美男美女でない人物の感情表現はけっこうあるのではないか。

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この挿画は、「雨 八」の松五郎(左)が徳太郎と対座している場面。

徳太郎は松五郎からおせんに情人がいると伝えられる。
どんな情人かとせまる徳太郎に対して、松五郎は知らないと答える。
徳太郎は機嫌をそこね、松五郎に帰れという。松五郎は、徳太郎にはそれよりもっと大事なことがあるのでは、問いかける。
徳太郎はその大事なことを聞こうとする。
「が、松五郎はわざと頬をふくらまして、鼻の穴を天井へ向けた。」

「鼻の穴を天井へ向けた」松五郎の微妙な表情。

ちゃんと鼻孔が二つ描かれている。

雪岱の様式化された人物と、鼻孔を描くリアリズムの微妙なバランス。

全集が出始めている大友克洋は、鼻孔を描くことで注目されたことを思い出す。

さて、幻戯書房から出た真田幸治氏編の『おせん 東京朝日新聞夕刊連載版』(2022年1月14日)は、新聞連載時の挿絵やカットを全て収録したものである。
解説は読み応えがあり、映画との関連など新指摘も多い。

〔付記、2022・2・7〕
図星です。「じせデジ」で太田三郎を引き、児島著に行き着き、「現代挿画家偶評」を読んだという道筋。