元版がなかなか見つからないので、復刻版で樋畑雪湖『日本絵葉書史潮』(日本の郵便文化選書、1983年9月16日、岩崎美術社、*元版は昭和11年4月10日、日本郵券倶楽部)を購入。
神戸市立中央が架蔵していて、ここは明治本でも貸し出し可能であるが、交通費1000円かける2、コピー代1000円と時間を考えると購入が合理的と判断。
いつもは、復刻版とオリジナルでは断然オリジナルの購入を優先するが見つからないので仕方がない。復刻版に解説がある場合は迷うこともある。
樋畑雪湖は志賀重昂『日本風景論』の挿絵を描いた人。
『郵便資料館紀要』第1号(2009年)掲載の井上卓朗「郵政資料館所蔵資料概要」から樋畑の経歴についての記述を引用しておこう。
樋畑雪湖(ひばた せっこ)は、郵趣研究の第一人者、切手原画作者、江戸時代の宿駅、 街道など交通史 の研究者として著名な人物であるが、郵便博物館創設 の功労者であることはあまり知られていない。 樋畑雪湖は、安政5年1月20日(1858年3月5日)、 真田藩士樋畑翁輔(おうすけ)(9)の長男として江戸深 川の真田(信州松代)藩の下屋敷に誕生した。本名は 樋畑正太郎、雪湖の号は故郷の諏訪湖の雪景にちなん でつけたものである。父翁輔は画才があり、嘉永6年 (1853)のペリー来航時に高川文筌(ぶんせん)とともにその様子を描いたスケッチ(10)は、 当時の状況を知るための貴重な資料となっている。父の才能を受け継いだ樋畑雪湖は、幼い頃から絵画を学んでいる。文久2年(1862)、翁輔 が病気のため江戸詰を解かれ松代に戻り、松代藩校の文武学校に入学、山寺常山に学び、かた わら父の進めにより酒井雪谷に師事して画を学んだ。明治8年(1875)、絵の修行のため上京し、浮世絵の富岡判六、洋画の川上冬崖に師事した。 同年、陸軍参謀本部図生に任用されるが、明治9年(1876)母大病のため松代に帰郷、明治11 年(1878)長野県庁図生として再出発し、明治13年(1880)史誌編輯掛、明治15年(1882)駅 逓御用掛兼務となる。明治17年(1884)志賀重昂が長野中学校に赴任したことで重昂との親交 が始まり、明治27年(1894)に重昂の代表作『日本風景論』の表紙、挿絵を描いている。明治18年(1885)、逓信省に出向を命じられ上京、同省駅逓局に勤務、明治25年(1892)、郵 務局計理課物品掛長となる。掛長として郵便用品の改良などを担当するかたわら、通信事業に 関する資料の収集・保存を行った。郵便博物館が創設されると同館の主任として勤務し、大正 12年(1923)に退官するまで、郵便創業関連資料の収集、江戸時代の飛脚や街道など通信・交 通関係資料の収集、電気通信資料の収集を行った。また、切手・はがき原画制作、特殊通信日附印の印面作成なども担当した。
自ら紀念絵葉書のデザインなどを担当していて、その体験をもとに、近代日本における絵葉書の移入と定着について記した本が『日本絵葉書史潮』である。
どんな内容かわからなかったが、逓信省発行の日露戦争紀念絵葉書の企画に携わっていて、石版の刷数が明記されている点が参考になった。
ただ、図版はモノクロで、そこからの復刻なので潰れてしまっていて、絵葉書のオリジナルを入手したいと思った。
以前購入した図録『巷の目撃者』(新宿歴史博物館、1999年10月23日〜12月5日)に日露戦争紀念のものを含めて多くの絵葉書のカラー図版が掲載されていて、理解の助けとなった。
この図録には佐藤健二氏が関わっているが、佐藤氏の『風景の生産、風景の解放』(講談社選書メチエ、1994年2月1日)の「第一章 絵はがき覚書ーメディアのアルケオロジー」は大変参考になった。特に注釈が充実している。
樋畑著からメモ。
◆混合版について。
写真と色刷りの組み合わせについて、「此時代には欧洲も猶ほ精巧の絵葉書には彫刻石版の 数回刷の色版に名画を模したり或は石版色刷に輪廓を装飾し それに「コロタイプ」膠版を以て人物なり、風景なりの刷合 せをしたものが数々流行してゐたのであつた。」と指摘している。
この技法は、日露戦役紀念絵葉書にも使われている。
*混合版については過去記事《絵はがきと印刷》も参照。
アートタイプ、アートタイプ膠版は、玻璃版とも呼ばれ、コロタイプに原理は同じ。
◆日露戦争と多色石板は密接に関わっている。
◆日露戦争紀念絵葉書には「ヌーボー式」、すなわちアール・ヌーボー様式の装飾枠を使ったものが見られる。なぜ採用したのかの理由は語られていない。
ただ、琳派の菊を装飾として使ったものがあり、雪湖の中では、琳派の装飾デザインとアール・ヌーボーは互換性のあるものと認識されていたことが見てとれる。
また、絵葉書というメディアが装飾性を許容するものであったとも言えよう。
