注釈日誌 「加茂の梅見」

いま、版画家田中恭吉の1910年日記の注釈にとりくんでいる。

ふだんは、ピックアップした項目について資料をもとに執筆しており、週1回、とある大学図書館に調べに行っている。

1日10項目が目標だが、そんなに進まないときもある。

調べるプロセスをメモとして残しておこうと思う。読者にはおもしろいかどうかはわからない。自分の心覚えのためである。

2度ほど「加茂の梅見」という語句が出てくる。

座右に『角川日本地名大辞典30 和歌山県』をおいているので、引くと加茂川中流域に位置するとある。梅についての記述はない。

次世代デジタルライブラリーで「加茂の梅」で引くと、『和歌山県日高郡誌』 (和歌山県日高郡 編、和歌山県日高郡 1923年)の「加茂の梅は縣下でも古くから文人の材となつてゐるが今の梅の名所は先づ西郡上秋津、萬呂、新庄一帶の地及日高郡上南部及南部町の地方であらう。」という部分がひっかかった。

1923年、恭吉日記より10余年あとには梅の名所は移っていることが暗示されている。

パソコン検索で、条件を変えながら引いていくと、『和歌山県立文書館だより』第19号(平成18年9月)に掲載された、「紀伊国名所図会等に見る今昔ー加茂谷と長保寺ー」(溝端佳則)という記事が見つかった。

なかに次のような記述がある。

今からは想像も出来ませんが、小南地区は梅林の名所でした。明治三二年三月五日付けの紀伊毎日新聞には和歌山市内の舶来商が小南の梅林に集まって春期懇親会を開くとの記事がありますが、季節ともなると、④図のように観梅客で賑わいました。しかし、次第にミカン畑に転換されていったようで、明治四三年に作成された『加茂村郷土誌』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所所蔵)には「近時次第二伐リ倒サレテ悉ク蜜柑畑ト化シ年毎ニ寂レ行クハ口惜シキコト」と慨嘆しています。

小南地区というのは加茂川の対岸で、梅の名所としてさかえたが、明治43年には、蜜柑畑に転換され、衰退がはじまっていたことがわかる。
田中恭吉たちは、そのそろそろ衰退しかけていた加茂の梅見にでかけようとしていたことになる。

実際の注釈にはこれらすべてを書くことができないので簡潔にまとめることになる。
かの学魔、高山宏先生は「詳注は焼酎」という名言を残している。あまり詳しい注は悪酔いするかも、という意味である。

注釈に使うときその情報の出典は記したいが、こだわるとたいへんだし、判断がむずかしいところだ。共通知に属するものは典拠を示さなくてもよいかもしれない。




この記事へのトラックバック