気分転換のため、安倍能成の随筆集『朝暮抄』(昭和13年10月15日、岩波書店)をパラパラ読んでいる。
おもしろく、続けて読んでしまいそうになるので、一度に読むのは2編程度にとどめている。
鈴木三重吉について記した「三重吉の小説その他」におもしろいことが書いてある。この文章の初出は昭和11年9月の『赤い鳥』の三重吉追悼号である。
辰野隆君が八月号の「文藝春秋」に寄せた三重吉の回想は、実に愉快な文章であつたが、併しその中に、三重吉の小説に筆を断つたのを自然主義の圧迫と見て居るのは、私の記憶によれば事実ではない。三重吉が作家として最もはやつた明治末から大正の二三年は、却て自然主義がやや飽きられて、三重吉や小川未明の作などが、ネオ・ロマンティシズムなどと持て囃された時である。その一例は、今読むとそれ程好いとも思はぬが、明治四十四年に出た「赤い鳥」の如きである。これは一方にじめじめ(引用者注ー原文は「く」の字型の繰り返し符号)した田舎の眼科院を描き、そのみすぼらしい病室の隣に居る、薄明の眼にかすかに見た女を、物語中の赤い鳥を飼った女と一つに合せて夢想するといふ筋のものである。後年三重吉がその童話雑誌に「赤い鳥」といふ名を附けたのは、この作に対する好評に気を好くしたことも、一つの理由であったらうと思ふ。 三重吉が書けなくなったのは、自然主義の圧迫といふよりも、その有する狭い細かい世界を、流行作家たるが為に矢継早に繰返し繰返し書かされて、遂にこれを消耗することを餘儀なくされたのによると信ずる。
辰野隆の文章は「鈴木三重吉との因縁」というもので、講談社文芸文庫の『忘れ得ぬ人々』(1991年2月10日)に収められている。
自然主義の圧迫で小説を断筆したというのは、他でも見る見解である。整理が悪く今見いだすことができないが旧角川文庫版の『桑の実・千鳥』の解説でも読んだ記憶がある。
安倍の指摘の通り、大正初年は客観主義の自然主義観が衰退し、主客融合のネオロマンティシズムがもてはやされた。リアルな側面と夢見がちなところを併存させた三重吉の作風は、そうした傾向にぴったり合致するものであった。
安倍は、もともとドメスティックな狭い世界で書いていた三重吉が、注目されて執筆機会が増えてその素材世界を消費し尽くしてしまったのだと見ている。
わたしは、『たそがれ』(原題『十七八』)が後年の谷崎潤一郎『私』と同じく一人称のトリックを使っていて、三重吉が小説の方法的実験をおこなっていることに注目していた。
そのことは過去記事《鈴木三重吉の小品》で書いた。なおこの記事中にある滝島里「『鈴木三重吉『たそがれ』研究」(2007年4月、『Sym.』1号)という文章はじつは私が書いたものである。noteのマガジンに「小品文学研究」を設けて、書き直したものを掲載する予定である。
小説の方法への実験的な思考を、娯楽という視点に転じることができれば、三重吉は書き続けることができたのだろうか。
それはともかく、安倍能成の随筆はおもしろい。
漱石山房に関わる人々のポルトレや、幼少期の回想などを柱にして安倍能成随筆集を編めば、昔を知りたいと思っている読書家は喜ぶのではないかと思う。
