偽史と物語 その2

『北神伝奇 妹の力』(2022年9月26日、星海社)は、半分まで読んでおいてある。
田中恭吉日記の注釈作業が佳境に入ってきたので、物語を読む余裕がなくなってきたからだ。

大塚氏のいう偽史としての民俗学がよくわかっていないのだが、角川文庫版の『木島日記』(平成15年3月)が出てきて、その「文庫版あとがき」を読んで理解が進んだ。

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「文庫版あとがき」には次のような記述がある。

確か『子供流離譚』という子供論を書いた時だったと思うが、千葉先生から「民俗学 が偽史であることによく気がついた」という不思議なハガキをいただいた。ぼくが戦前のオカルティストや新宗教家に興味を抱き、柳田の山人論も偽史なのではないかと、本に書いたのだが、先生への手紙に書いたのだか忘れたが、とにかくそのことを誉めて下さったのだ。

「千葉先生」は、千葉徳爾(1916−2001)、柳田門下の民俗学者。狩猟伝承研究で知られる。

『子供流離譚』(1990年8月3日、新曜社)は今も残してあるので、パラパラ見てみると、「「山の人生」考ー「恢復」のための物語について」という1編(初出は『東京人』1989年8月)に次のような箇所を見つけることができた。
少し長いが引用してみよう。

 今、メディアが子供の犯罪をめぐって書きたてる〈物語〉は彼らを異人として排除する 〈物語〉である。ぼくのこういった〈物語〉に対するメディア批判もまた別のあら筋からなる 〈物語〉にしかすぎないのではないか、という批判は当然あろう。そのような批判は甘んじて受けた上で、それでも子供たちにとって必要なのは 〈排除の物語〉ではなく、排除された子供たちを回収し「恢復」せしめる物語であると主張したい。〈排除の物語〉だけが肥大し過剰に流通していくという事態に対し、とりあえず必要なのは〈回収=恢復の物語〉を提示することではないのか。 子供が殺されることも、殺す〈コドモ〉が出現することもともに回避したいというのが誰にとっても切なる願いであるとすれば、結論は一つのはずである。むろんその〈物語〉はあくまでも一時の避難所であり、子供は再びそこから旅立つことが望ましいが、「子供論」はそのような回収=恢復と再びの離脱の筋道を探し、提示する作業であるべきと願う。 柳田國男の『山の人生』 からぼくが学ぶのはこのような思考であり、ぼくにとっての民俗学とは〈恢復のための偽史〉作りの学としてのみ意味を持っている。

柳田の山人論は、異質のものを排除し続ける現実を照射するための「偽史」としての物語だという。同じように子どもを異人として排除する物語に対抗する恢復の物語を偽史として提示すべきだというのである。


『木島日記』の「文庫版あとがき」には次のような一節も見られる。

『木島日記』は戦前、オカルティズムと軍の一部が奇妙に接近した事実を素材としている。「国家」や「国民」というフィクションを捏造するのには、時にオカルトめいた歴史の方が利用価値があるのだ。ナチズムに向かうドイツでオカルティズムがいかに政治にコミットしてしまったかに関しては横山茂雄の『聖別された肉体』(白馬書房)だけが孤高の仕事としてあったが、近年の国民国家やナショナリズムの研究の中で、偽史とナチズムの関わりを位置付ける視点がようやく共有されるようになり、同様の事態が日本の戦前から戦時下にもあったことの意味が改めて問題となってくる。

『聖別された肉体』はいまは創元社から増補版が出ている。



ここまできて難しい問題が浮上してくる。

大塚氏はそのことに気づいている。
『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』(2021年8月25日、星海社新書)の「ノート1 陰謀論」では、Qアノンの問題が取り上げられている。



冷静になればおかしいと感じるはずの陰謀論がSNSを席巻し、議事堂への侵入事件をもたらした。
これも、じつは偽史作りの一例なのではないか。

つまり、ディープステート論も山人論も偽史としては等価なのではないかということが問われてくるのではないか、ということである。



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