ヤフオクで1野口でおとせた、大日本国民中学会『正則中学講義録』第1学期第8号(明治38年7月15日)。
小冊子について考えたときに、講義録もその中に入ると思い、中学講義録や文章講義録を古書で探したが見つからなかった。
過去記事《小冊子メモ (3) 『文章講義録』》
過去記事《小冊子メモ まとめ》
いま(2022/12/29 12:42)、《日本の古本屋》で検索すると、けっこうひっかるではないか。
大日本国民中学会のほかに、中学講習会や大日本模範中学会という組織があることがわかる。
大日本国民中学会についてはウィキペディアに立項されている。
入手したものは、「日本歴史講義」の第一学期、東京高等師範学校教諭の齋藤斐章が、神代から豊臣秀吉までを書いている。
和綴じで148頁。小冊子と言っていいだろう。
「第二十章 北条氏の初世(義時、泰時、時頼)」から「九七、承久の乱」の一節を引いてみよう。
この時三上皇あり後鳥羽上皇は一院とも、本院とも申し後土御門上皇は中院と申し た。本院と新院(引用者注−順徳院)とは、日夜軍事を議せられ、中院は時機早しと諫められたが、このこと鎌倉に漏れ聞えたれば、関東にては尼将軍(政子髪を削りたれば云ふ)先づ旧恩ある 武士の心を固め、大江広元の議を用ひて義時の弟時房及び子泰時を将とし、十九万人を率ゐ、三道より京都に攻め上らしめたれば本院は一万七千の兵を分ち、美濃・尾張・越中に防がしめたが、官軍悉く敗れ、関東の兵京都に攻め入った。三上皇俄かに延暦寺に行幸ありしが、時房泰時は義時の命を以て天皇を廃し奉りて後堀河天皇を立て、本院を隠岐に、新院を佐渡に、中院を土佐に流し奉り、この事に与づかれる公卿等を斬流に処した、これを承久の乱といふ。北条氏の大逆こゝに至りて極れりといふべしだ。
「北条氏の大逆こゝに至りて極れり」という認識である。
さて、入手した講義録はとてもきれいだ。あまり使用されなかったのか、はたまたデッドストックなのか。
気になるのは、大日本国民中学会の通信教育を修了して、それが社会的な実効性をどの程度もっていたかということである。
修了後、正規の中学校に進んだ者もあるというが、その数はどれくらいなのだろう。(きっとわずかだと思う。)
そして石川啄木の詩を思い出した。
「呼子と口笛」の一編「飛行機」である。
飛行機一九一一・六・二七・TOKYO見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ……見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。
これまで、あまり気にしなかったが、給仕づとめの少年が使っている「リイダア」は講義録である可能性が高いのではないだろうか。
